「詫間航空隊と共に散った若者の命」~本紙読者投稿より
昭和16年11月、詫間海軍航空隊の建設が発表された。 18年6月には同航空隊が開隊し、九十四式水上偵察機、二式飛行艇など含め、各地から2千名もの兵員が着任して猛訓練が開始された。 ・・・
昭和16年11月、詫間海軍航空隊の建設が発表された。 18年6月には同航空隊が開隊し、九十四式水上偵察機、二式飛行艇など含め、各地から2千名もの兵員が着任して猛訓練が開始された。 ・・・
明日来ても、もうこの店に電気のつくことはない。 私のイメージからいっても、和食だろう。しかしイタリアンが多い。京都では食事というと和食だし、おばんざいも濃い味が好きだ。 私のごひい・・・
忠君愛国の教育を受けた大正生まれの人ならば、心に残る教科書。「水兵の母」は、次のような書き出しだった。 「聞けばそなたは豊島沖の海戦にも出ず、また八月十日の威海衛攻撃とやらにも格別・・・
昭和20年2月19日、米軍の艦載機であるグラマン戦闘機80機が、数十回に渡り詫間、観音寺航空隊と、豊浜の暁部隊を空襲した。 予讃線(四国旅客鉄道)も銃撃され、死者2名、重軽傷者10・・・
昭和19年支那での出来事、河南省において作戦行動中に起きた生死にかかわる36時間の戦いです。 私たちの分隊の装甲車両が河原においてキャタピラと誘導輪の故障で頓挫してしまい、前進不可・・・
毎年夏になると、終戦の頃の思い出がよみがえる。 当時私は野戦重砲通信隊の初年兵で、 「貴様らは消耗品だ」 と罵られ、人間扱いをされなかった。 声が小さい、動作が鈍いと、事ある毎に古・・・
私は1920年生まれ、昭和15年に徴兵検査で甲種合格しました。村で初めての海軍兵として、駅まで万歳で盛大に見送られました。 呉海兵団に入団し、新兵教育後、沖合に擬装中の大和に乗艦す・・・
(本稿は老友新聞本紙2016年5月号に掲載された当時のものです) ここ数年、沢山の外国からお客様が増えたと実感しています。銀座通りを歩いていると他所の国の言葉が氾濫し、日本語が聞こ・・・
私は昭和一桁生まれなので、あの苦しかった戦争を体験しています。物の無い時代、今思えば辛酸極まりない生活でした。 なにしろ米が無いので、学校でも畑を耕してサツマイモなど作りました。 ・・・
港区立郷土歴史館は、7月31日(土)~9月12日(日)に「港区浮世絵さんぽ」を開催いたします。 港区は、国内外から多くの人が訪れる観光スポット、オフィスビルがひしめくビジネス街、大・・・