「特攻兵と妓」~本紙読者投稿より
私たちの世代は、戦争抜きでは人生を語れない。これは当時、詫間海軍航空隊にいた、ある兵曹の手記(18歳の遺言書)である。皆様に紹介しよう。 ◇ 《兵曹の手記》 昭和20年、詫・・・
私たちの世代は、戦争抜きでは人生を語れない。これは当時、詫間海軍航空隊にいた、ある兵曹の手記(18歳の遺言書)である。皆様に紹介しよう。 ◇ 《兵曹の手記》 昭和20年、詫・・・
私の同窓生の一男さんは、小学校高等2年を卒業後、14歳で志願兵を志し、予科練航空隊として千葉県土浦へ入隊し、少年航空兵となりました。 当時は6年間までが義務教育で、男女は別の教室で・・・
昭和16年11月、詫間海軍航空隊の建設が発表された。 18年6月には同航空隊が開隊し、九十四式水上偵察機、二式飛行艇など含め、各地から2千名もの兵員が着任して猛訓練が開始された。 ・・・
忠君愛国の教育を受けた大正生まれの人ならば、心に残る教科書。「水兵の母」は、次のような書き出しだった。 「聞けばそなたは豊島沖の海戦にも出ず、また八月十日の威海衛攻撃とやらにも格別・・・
昭和20年2月19日、米軍の艦載機であるグラマン戦闘機80機が、数十回に渡り詫間、観音寺航空隊と、豊浜の暁部隊を空襲した。 予讃線(四国旅客鉄道)も銃撃され、死者2名、重軽傷者10・・・
昭和19年支那での出来事、河南省において作戦行動中に起きた生死にかかわる36時間の戦いです。 私たちの分隊の装甲車両が河原においてキャタピラと誘導輪の故障で頓挫してしまい、前進不可・・・
毎年夏になると、終戦の頃の思い出がよみがえる。 当時私は野戦重砲通信隊の初年兵で、 「貴様らは消耗品だ」 と罵られ、人間扱いをされなかった。 声が小さい、動作が鈍いと、事ある毎に古・・・
私は1920年生まれ、昭和15年に徴兵検査で甲種合格しました。村で初めての海軍兵として、駅まで万歳で盛大に見送られました。 呉海兵団に入団し、新兵教育後、沖合に擬装中の大和に乗艦す・・・
老友新聞2021年3月号が発行となりました。 おもな掲載内容をご紹介いたします。 【1面】 特集:宅配食材で「内食」楽しむ 市田ひろみ連載コラム: 「手から手へ 母の荷物」 【2面・・・
私の義父は戦時中、リウマチを患い、手足も曲がり不自由でしたが、農業は適当にこなしておりました。 しかし50歳の時、転んで骨折し手術をしました。5か月の入院で歩行できなくなり、部屋の・・・