「恐ろしい爆撃の記憶」~本紙読者投稿より
大東亜戦争も末期の昭和19年。赤紙の徴用令によって私は大刀洗飛行機製作所に召集された。 私は輸送課に配属され、資材の発送、受取の仕事のため、連日大刀洗駅と製作所の間を何回となく往復・・・
大東亜戦争も末期の昭和19年。赤紙の徴用令によって私は大刀洗飛行機製作所に召集された。 私は輸送課に配属され、資材の発送、受取の仕事のため、連日大刀洗駅と製作所の間を何回となく往復・・・
「プーチンの戦争」といわれるロシアのウクライナ侵攻は、SNSを多用した情報戦の一面を浮き彫りにしている。 ウクライナのゼレンスキー大統領は、自らのSNSで、「私はここにいる」と首都・・・
「過ぎし日の戦の語り部」として、当時の日記を見ながら書いてみます。 ◇ 昭和18年5月14日。当時私は農後水道を守るため、愛媛県の宇和海に浮かぶ小さな島「日振島」に派遣さ・・・
大東亜戦争も末期の昭和19年。赤紙の徴用令によって私は大刀洗飛行機製作所に召集された。 輸送課に配属され、資材の発送、受取の仕事のため、連日大刀洗駅と製作所の間を何回となく往復し・・・
老友新聞2022年2月号が発行となりました。 おもな掲載内容をご紹介いたします。 【1面】 特集 パラ五輪で脚光「ボッチャ」の魅力とは? 【2面】 私の健康法 鈴木大地さん 髙谷典・・・
昭和20年8月15日、終戦となり、湖南省の第一線、湘桂作戦に参加中であった部隊は前線から撤退、湘陰に集結し、師団に合流した。 9月23日、武装解除を受け、戦わずして虜因の汚名を受け・・・
昭和20年8月6日午前8時15分。広島で原子爆弾が炸裂した。 私は当時18歳。広島市から2キロ離れた場所で被曝しました。 爆発直後は、辺りは真っ暗になり、爆心地から5キロの場所まで・・・
昭和の動乱時代を過ごした私たちは、戦争を抜きにして人生は語れない。楽しいはずの青春時代を、武器を持って人と人とが殺しあうという、残酷で悲惨な時代を過ごしたのだ。大勢の若者が人生の春・・・
昭和19年4月、私は徴兵検査を受けて見事甲種合格となり、翌年軍隊に入営の通知書をいただきました。 そして3月27日に、多くの部落の方々からの歓呼の声に送られ汽車に乗りました。車窓か・・・
私より3歳年上の兄は、小学校を卒業後、親戚が経営するかつお節店に住み込みの丁稚奉公に行きました。 薮入り(奉公人が休暇をもらうこと)で帰ってくるときには、新しい着物を着て、風呂敷包・・・