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2018年06月01日
没後35年で改めて注目される寺山修司-多くの支持を集めたマルチな才能を振り返る…
詩人、歌人、脚本家、小説家、映画監督、競馬評論家と、マルチな才能で活躍した寺山修司が47歳の若さで没して35年。ここ数年、戯曲の上演や回顧展、関連本の出版、監督作品の上映など、「寺山修司現象」が起きている。
1935年に青森県弘前市に生まれた寺山は、中学・高校在学中から俳句や詩に早熟の才能を発揮した。1954年、早稲田大学に入学すると短歌会に入り、短歌研究会新人賞を受賞(大学は病のため1年で退学)。
その後、活躍の場を映画・舞台にも広げ、演劇実験室「天井桟敷」を主宰。アングラ演劇の旗手として多くの若者の支持を集めた。
幅広い分野で異彩を放った寺山だが、その原点は俳句・短歌にあるといえよう。
中学時代の俳句仲間は「どこからか詩的な言葉をみつけてきて、そこに感動を沸き立たせる“言葉の狩人”」という。
父母を詠んだ句が多いのも特色だ。
桃うかぶ暗き桶水父は亡し
父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し
山鳩啼く祈りわれより母ながき
花売車どこへ押せども母貧し
9歳の時に父が戦病死したことを知らされた寺山は、父へのあこがれ、理想化した父親像が読み取れる。
リアルタイムでは知らない若者たちが、なぜ寺山修司に惹かれるのか?意外なことに中高の多くの国語教科書に寺山の短歌が収載されている。加えて、父母に対する思慕や故郷への思いは時代を超えて共有できる。そこに潜在的な親しみ感があるのではといわれる。
『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや』
5月に生まれ、5月に逝った寺山修二の代表的な一句である。(老友新聞社)
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