コラム
デキシーランドのミサ
(本稿は老友新聞本紙2020年12月号に掲載された当時のものです)
その日、青い空は雲一つなかった。
同級生のA君のミサに出席した。教会から斎場まで約80メートルくらいだろうか、私達の小さなパレードはデキシーに包まれていた。パレードを実現するため、ここまで来るのには大変だった。そんな日々を思い出しながら歩いた。
A君は堀川高校の同級生で、トロンボーン奏者だった。彼は友人たちと小さなグループを作って、お声がかかるとジャズのコンサートに行っていた。当時としては、私達の誇りだった。
◇
1974年、ヒューストンへきものショーに行った帰り、私達はニューオーリンズへ向かった。もちろんジャズが目的だ。ニューオーリンズのフレンチクォーターにはフランス風の白い家の一角があって、ジャズのライブハウスが続いていた。私達は、そのうちの一軒のライブハウスに入った。
40~50人のお客で満員となり、充分に雰囲気は出来ていた。ふと見ると、前列の中央の席が空いていて、そこにバンジョーが立て掛けてあり、「J.J.」と白いペンキで書かれていた。
独りのメンバーがマイクを握った。
「レディース&ジェントルマン、悲しいお知らせがあります。今朝、J.J.が天国へ召されました。明朝9時に協会のミサにパレードをいたします。みんなでデキシーで送りたいと思います」
J.J.は仲間達に見送られて天国へ旅立った。
日本でのパレードの実現は確かに難しかった。何度も警察の交通課へ通い、商店街の行事と一緒ならOKということになった。A君のミサは短くても、私達の友情を繋ぎながら、元気よくデキシーを演奏した。A君はトロンボーン奏者として、この友情を天国の道筋で喜んでくれただろうか。商店街の人は大喜びだった。
◇
見送るということは、その人の人生を語ることだ。
実は、お墓の形はもはやアートだ。フランスやイタリアなどでは肖像画となったり、音楽家の人は彫刻として残されている事が多いが、日本でも少しずつ変化が見られる。
ロサンゼルスにマリリンモンローのお墓がある。40~50センチのマンション墓だ。シンプルなお墓だが、そこに一輪挿しの水差しがあり、毎日一輪の赤いバラが生けてある。誰が生けているのだろうか。マリリンの最初の夫、ジョー・ディマジオが生けているのだ。(マリリンの最初の夫は野球選手)
フランスのオーヴェル=シュル=オワーズに、ゴッホ兄弟の墓がある。フィンセント・ファン・ゴッホは、生前、豊かではなかった。弟のテオは貧しい暮らしの中、兄を助けて画廊を経営していた。そうした二人の仲は事実として白い花の咲く墓に記された。
ブラジル・サンパウロでは、アイルトン・セナの墓に参った。講演の小高い丘に盛土をしたような感じで質素なものだった。
グループの参加者のおじいさんの一人が
「アイルトン・セナって誰どす?」
と呟くのが聞こえた。
仁徳陵をはじめ、いくつか古代の墓を見てきたが、日本・エジプト・ローマ・ギリシャなど、墓によって時代を知り、その国の歴史を知る。
フレンチクォーターの一日は、歴史の広がりを見ることが出来たが、A君を通して友情と私達の小さな歴史も振り返ることが出来た。その人がどんな風に生きたか、ということは、埋葬される墓標によって偲ばれる。
やがて大きな亀甲墓は、広い土地を有する人によってのみ残されていくだろう。
(本稿は老友新聞本紙2020年12月号に掲載された当時のものです)
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- 市田 ひろみ
- 服飾評論家
重役秘書としてのOLをスタートに女優、美容師などを経て、現在は服飾評論家、エッセイスト、日本和装師会会長を務める。
書家としても活躍。講演会で日本中を駆けめぐるかたわら、世界の民族衣装を求めて膨大なコレクションを持ち、日本各地で展覧会を催す。
テレビCMの〝お茶のおばさん〟としても親しまれACC全日本CMフェスティバル賞を受賞。二〇〇一年厚生労働大臣より着付技術において「卓越技能者表彰」を授章。
二〇〇八年七月、G8洞爺湖サミット配偶者プログラムでは詩書と源氏物語を語り、十二単の着付を披露する。
現在、京都市観光協会副会長を務める。
テレビ朝日「京都迷宮案内」で女将役、NHK「おしゃれ工房」などテレビ出演多数。
著書多数。講演活動で活躍。海外文化交流も一〇六都市におよぶ。
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