コラム
「始末する」という言葉の本当の意味は!?「捨てる」じゃありませんよ<市田ひろみ連載4>
「始末」(しまつ)。もしかしたら、若い人の中には読めない人がいるかもしれない。また、その言葉の意味も、どのように解釈するだろうか。
京都ではよく使われる言葉だけど、これも時間の流れとともに、消えようとしている言葉かもしれない。
京都の人は、大抵親から日常的に言われて来た言葉のひとつだろう。
「捨てたらあかんえ、始末せなあかん」
始末とは、片付けるということではない。ケチというのは、出さなきゃならないときに出ししぶるのを言うが、それとも違う。どんなものでも、そのものに生命があり、使える間は使う、という意味だ。
何でもポイポイ捨てたらあかん。
ケニアのマータイさんによって「もったいない」が世界語になり、温暖化の中で定着した大きなテーマとなった。
物や心に対して、もったいないという心遣いは、民族を越えて地球規模でひろがっていった。
重い学術用語でもなく、世界語としては簡単な単語だ。
「使い捨て」という風潮は、田中総理の頃に流行したが、京都の人は簡単には捨てないから、家の中に物があふれる。
いまだに台所にはアルミのやかんや鍋があるし、木のまな板や洗濯板も揃っている。
川端丸太町を東へ行ったところに、古い荒物屋さんがあり、大体、明治の台所用品は揃う。
私がいつかテレビでアルミの鍋を使っていたら、私のスタッフが、テレビにうつる時は、もっと現代風な鍋を使用してくださいといっていたが、アルミの鍋・釜は軽くて使いやすい。
第一、荒物屋さんに聞くと、常連のお客様がいて、やめられないと言っていた。
昔は、お嫁さんは「世帯持ちが良い」という評価を得るよう親が躾をして育てるのだが、まさに暮らしの中の始末がさりげなく出来る人は今も美しい。
日本の暮らしが便利になって、女性の家事労働も便利になってきたが、何かが失われてゆくように思う。
それは暮らしの中の情感ではないだろうか。
クールビズで、日本の夏を何とか快適に過ごそうとするものの、ころもがえもかわってきた。
京町家には奥の間に床の間があって、花が活けてあって、お軸がかけてあった。
母は仕事を持ちながら、季節毎に軸をかけかえていた。正月は、日の出か富士山だった。
いつか、軸をかけかえている母に
「桔梗か?」
といったら、
「あほやな、鉄線花やがな」
と言われた。
廊下には一輪差しに野の花が差してあった。
そうして、決してぜいたくな風景ではなかったが、子供心に季節を知った。
その上、我が家は俳句一家で、家族全員、私達も子供の頃から大人にまじって俳句を作っていた。
十七文字の中に季節があり、大人になって仕事する上でキャッチコピーを作るのに役立った。
日本人の美意識は、家の中にも、おもてにも、環境のもたらすものであった。
子供達に季節を通して、日本の心を育ててゆきたいものだ。
明治の親は暮らしの中に四季を感じさせてくれた。それを伝えることが日本文化の語り部としての私の役割となった。そして今、私は親を思いながら、一輪差しに花を活けている。
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- 市田 ひろみ
- 服飾評論家
重役秘書としてのOLをスタートに女優、美容師などを経て、現在は服飾評論家、エッセイスト、日本和装師会会長を務める。
書家としても活躍。講演会で日本中を駆けめぐるかたわら、世界の民族衣装を求めて膨大なコレクションを持ち、日本各地で展覧会を催す。
テレビCMの〝お茶のおばさん〟としても親しまれACC全日本CMフェスティバル賞を受賞。二〇〇一年厚生労働大臣より着付技術において「卓越技能者表彰」を授章。
二〇〇八年七月、G8洞爺湖サミット配偶者プログラムでは詩書と源氏物語を語り、十二単の着付を披露する。
現在、京都市観光協会副会長を務める。
テレビ朝日「京都迷宮案内」で女将役、NHK「おしゃれ工房」などテレビ出演多数。
著書多数。講演活動で活躍。海外文化交流も一〇六都市におよぶ。
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