コラム
「義経号」によせて…人生の旅立ちの際に感じた母の愛<市田ひろみ 連載16>
中国上海で小学校時代を過し、1945年以後、京都の人となり、1968年以後は世界の衣装の研究者として、世界をめぐる。きっと神様は、私を旅人として育てて下さったのではないか。
京都に、鉄道博物館が出来た。京都駅の西側に、日本最大の博物館だ。
私の記憶のどこかに眠っていた、50を超える機関車や汽車が並んでいる。鉄道ファンにもたまらないだろうが、誰でもいくつかの思い出を持っているのではないか。まして、煙をはきながら走る機関車は、日本の原風景だ。
私にも、いくらかの思い出がある。
上海から帰国した私達に住む家は無く、母のふるさと、大津・膳所の祖母の家に身をよせた。
東京から帰って来た家族など、30人位、奥の間にざこねをしていた。
祖母の家は農家で、広い畑のむこうを東海道線の汽車が走っていた。夜中、しんと静まりかえった畠に、汽笛が響く。今でもSLの汽笛を聞くと、胸がつまる。
こんなこともあった。
昭和35~36年だろうか。大映の女優として、京都の時代劇から、東京の現代劇に転籍になった。
そしていよいよ家族と別れて東京へ。
たぶん、夜行列車だったと思うが、当時は誰かが旅行するとなると、家族や親戚が駅へ見送りに来る。その日も母が荷物を持って、見送りに来ていた。
列車の窓をあけて、見送る人、見送られる人がしゃべっていた。二等車で、2人ずつ4人掛けの席に、すでに男性が座っていた。
母は私の席の前に座っている青年に、
「この子は1人で東京へゆきますので、もし、なにかあったら、よろしくおねがいします」
と頭をさげた。私はちょっと恥ずかしかったけど、たのまれた青年も身をかたくして頭をさげた。
やがて列車は静かにホームをはなれた。
青年は静かに窓をしめた。
駅舎の上の、深い藍色の空に、満月がひときわ大きく照りはえていた。
後年、おたがい社会で活躍するようになっていた。そんな日、ある会議で、京大のY教授が、私のところへ走って来た。
「昔、あなたが東京へゆく時、京都駅で、娘をよろしくとたのまれたのは、僕なんですよ。あなたが映画に出るようになって、いつかお会いした時、このことを言おうと思っていたんですよ。きれいなお母様でした……。あなたの人生の旅立ちだったのですね」
Y教授は、長い間、心の中に秘めていたことを、とめどなく語りつづけた。
「それにね、あなたの横顔がイングリッド・バーグマン、わかります?(誰が為に鐘は鳴る)瞬間、あっと思ったんですけど。勿論、誰にも言いませんけどね……」
とめどなくつづく。
Y教授はともかく。寝台車でもなく、夜行列車であったことはたしか。一体、何型で行ったのだろうか。
明治5年、新橋~横浜間に初めて汽車が走って、それから新幹線まで…日本の汽車は、最高の技術で進化をしてきた。
仕事の旅も、遊びの旅も、JRはおもてなしとともに、夢や希望をつないで来た。
とりわけ私は「義経」号のファン。1880年(明治13年)から130年、最高齢のSLだ。
どこから見てもエレガントで、素敵な義経は、見事にこの居場所で出直して、大勢の人をたのしませている。(老友新聞社)
この記事が少しでもお役に立ったら「いいね!」や「シェア」をしてくださいね。
- 市田 ひろみ
- 服飾評論家
重役秘書としてのOLをスタートに女優、美容師などを経て、現在は服飾評論家、エッセイスト、日本和装師会会長を務める。
書家としても活躍。講演会で日本中を駆けめぐるかたわら、世界の民族衣装を求めて膨大なコレクションを持ち、日本各地で展覧会を催す。
テレビCMの〝お茶のおばさん〟としても親しまれACC全日本CMフェスティバル賞を受賞。二〇〇一年厚生労働大臣より着付技術において「卓越技能者表彰」を授章。
二〇〇八年七月、G8洞爺湖サミット配偶者プログラムでは詩書と源氏物語を語り、十二単の着付を披露する。
現在、京都市観光協会副会長を務める。
テレビ朝日「京都迷宮案内」で女将役、NHK「おしゃれ工房」などテレビ出演多数。
著書多数。講演活動で活躍。海外文化交流も一〇六都市におよぶ。
- 今注目の記事!