コラム
NHKドラマ「八重の桜」でも注目された衣装…半世紀前の思い出が紡がれる<市田ひろみ連載1>
もう半世紀も前のこと。
昭和四十年代は団体の外国人、団体客が京の町に多く見られた。それもヨーロッパ系やアメリカ人が多く団体で動いていた。
ホテルのロビーも金髪の男性が日本人よりずっと多かった。
我が家は、京都ホテル(現・京都ホテルオークラ)の中に美容室を持っていたが、時差をつけてお客様をこなしていた。
私が、オッテンベルグ氏と逢ったのはそんな頃だった。
団体客の多い中で、夫妻は、団体ではなく夫婦二人の旅で、奥様のヘアーセットの間、御主人は椅子にすわってまっていた。
一ドル三六〇円の時代。ヨーロッパからは八千キロもの遠い国の、独特の文化をこのんで来てくれたのだ。
今はアジアの人々が、京都観光であふれている。
特に、祇園あたりは、もしかして舞妓さんや芸妓さんが見られればとカメラを持って夜おそくまで待っている。
今は外人の京都観光の、第二次ブームかもしれない。
ところで、オッテンブルグ御夫妻とも親しくなり、能楽堂や竜安寺へご一緒したこともあった。
そんな或る日。オッテンベルグさんが日本人形の頭を持って来た。毛が無い。
「この人形に市松人形の髪をつけてほしい。私は四条の『田中弥』へ御一緒した。
帰国前日。黒い髪がととのえられて見事に出来上がっていた。
「ひろみ、ありがとう」
日本が大好きで、日本の文化が大好きで、骨董商のオッテンベルグさんの本物を見る目は、ひとつづつ海を渡っていた。
一九七〇年、万国博の年も御夫妻で来られた。
「ひろみ、おねがいがある。私達は、大きな寺はほとんど見たけど、一般の人の暮らしを知りたい。ぜひひろみの部屋を見せてほしい」
「恥かしいからだめ」
きっと御夫妻の家にくらべたら、日本の普通の庶民の庭の無い家なんか……など、躊躇しつつも、御夫妻は我が家に来た。
「カラーテレビがあるよ。ロンドンでは千ドルもするよ。ひろみは金持だ……」
小さな我が家をひとつづつ紹介している時、
「ダービーの我が家はいくら部屋があるかわからないけど、雨もりがするので、ヒュー室(いくつか)しか使っていない」
私は雨がもるにひっかかった。
きっと古い貧しい家なのかも……。
当時の日本も古い家はこんなこともあった。私は勝手に想像をめぐらせた。
その後、ロンドンにいくことがあって、ダービーの、オッテンベルグさんの家を訪ねることがあった。
身の丈程の雑草の生い茂る中に、二〇〇年を越すオールドイングランド風のその家は、埋めこまれるように、風雪に耐えて立っていた。二階のガラス窓は、あけられることなく十字の木でとめてあった。
雨がもるのは当然。この家の歴史を語っていた。
ところで私は、御夫妻からオッテンベルグ氏の母上のドレスを頂いた。
私の研究は時代衣装ではなく、民族衣装だが、バッスルスタイルが珍しかったので、もらって帰った。
長い間、倉庫で眠っていたこの服は、NHKドラマ「八重の桜」で再浮上。
なんと明治二十一年、八重の記念撮影の服と同じ形だったのだ。今では私の宝物。一〇六年の月日をへて、珍しいバッスルスタイルは日本へやって来た。市松人形はバッスルに身をかえて、手から手へと歴史をつむぐ。
ヒースの花の庭。そうだ、九月の日の思い出だ。
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- 市田 ひろみ
- 服飾評論家
重役秘書としてのOLをスタートに女優、美容師などを経て、現在は服飾評論家、エッセイスト、日本和装師会会長を務める。
書家としても活躍。講演会で日本中を駆けめぐるかたわら、世界の民族衣装を求めて膨大なコレクションを持ち、日本各地で展覧会を催す。
テレビCMの〝お茶のおばさん〟としても親しまれACC全日本CMフェスティバル賞を受賞。二〇〇一年厚生労働大臣より着付技術において「卓越技能者表彰」を授章。
二〇〇八年七月、G8洞爺湖サミット配偶者プログラムでは詩書と源氏物語を語り、十二単の着付を披露する。
現在、京都市観光協会副会長を務める。
テレビ朝日「京都迷宮案内」で女将役、NHK「おしゃれ工房」などテレビ出演多数。
著書多数。講演活動で活躍。海外文化交流も一〇六都市におよぶ。
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