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コラム

2022年03月17日

第49回 名護屋城~隣国侵略の基地~

所在地=佐賀県唐津市鎮西町名護屋
種類=平山城

秀吉の朝鮮出兵「前線基地」
5カ月で築いた総石垣の城

名護屋城は、豊臣秀吉が明、朝鮮征服のために前進基地とした巨大な城郭です。この基地は、黒田長政、加藤清正、小西長行など城づくりのプロにより、突然に外征の兵站基地としての役割りを与えられ、わずか五か月の突貫工事で築かれた総石垣の巨大な城です。

愛児の死で出兵を決断秀吉は、直感的に朝鮮出兵を九州征伐の延長線上に捉え、国境という認識が欠けていたといわれており、外国という概念もほとんどなく従えさせればそこは日本になる、と考えていたのかもしれません。

愛児の死で出兵を決断

天正19年、秀吉の長子鶴松が3歳にもならないうちに亡くなります。
この時、秀吉54歳。その悲しみは深く、朝鮮侵略を決断したのはこの時です。最愛の我が子を失った悲しみを征服欲で代償しようとしたのです。
「大明に入り、皇帝になる」などと言っていたのですから、愛児の死で混乱していたのでしょう。
一人の幼子の死により、日本中が外征に振り回されたのです。強制労働、強制出兵に加え、引き際を誤った指揮官のために多くの死傷者を出し、隣国も戦火で蹂躙されるのですから歴史は皮肉です。

なぜ、松浦郡鎮西町名護屋の玄海灘に飛び出す東松浦半島の最短部が選ばれたかというと、壱岐に近いからです。名護屋、呼子、唐津あたりは「魏志倭人伝」の末盧国に比定されてくるくらいで、朝鮮半島からの来航ルートとして長い間利用されてきました。地理的に朝鮮に近いということで、着工を命じてから半年、工事期間五か月で秀吉の本営が置かれたのです。

名護屋城址には、今は石垣が残るのみですが、ここの石垣は時とともに崩れたのではなく、故意的に壊され、石は至る所に転がり、かつては、太閤秀吉の大御殿や、書院、遠征軍のための城下町もあったのですから歴史のロマンと重みを感じます。
城内は案内版が整っているので陣屋跡なども楽しめます。城内最高の天守台から見える海の先は、朝鮮半島に繋がっています。

 

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