コラム
第44回 高知城~小柄な美人天守閣~
所在地=高知県高知市丸の内1-2-1
種類=平山城
別名=鷹城
高知城に、壮大や雄大という言葉があてはまらないのは、城そのものが決して大きくないからです。この城は大手門と天守閣を一望におさめられる、東南方からの眺望がとても美しいと思います。
山内一豊が築城
高知は、もとは「河内」と書かれていた所です。鏡川とその支流が抱いているデルタ地帯で、河床よりも低い土地です。今でもそうですが、梅雨から台風の時期には太平洋の豪雨をまともに受けてしまう所です。治水工事も行われていなかった昔は洪水も多く、被害を防ぐ方法も無かったために、東西に長い土佐国の中央に位置していながら、大高阪氏の居城であった大高阪城址は放置されたままでした。
しかし、ここに登場したのが遠州掛川の小城主から土佐二十四万石に破格の出世を遂げた山内一豊です。この一豊が近世城郭として高知城を築城します。
天守台のない天守は四重六階で本丸から直接天守に入ることが出来ます。その理由は天守だけの防御ではなく、本丸全体を最終防御拠点とする実践向きの造りだったからです。
山頂には本丸と二の丸、東側の一段下に三の丸。二の丸には藩主の居住空間のための御殿が設けられていました。全て完成したのは起工から十年目の慶長十六年(1617年)です。ですが、築城後百十年を経た享保十二年(1727年)の大火で高知城とその城下町はたった二日で全焼する悲劇にみまわれます。
大火の後、城は再建にかかり、藩財政が最も酷かった宝暦三年(1753年)に現在の天守閣が出来ています。ですから、今の天守は現存する江戸中期の建物で、外観四重、内部六階、二重櫓の上に望楼部分を載せた古式な天守です。
駿馬連れた「内助の妻」の像
天守閣の他に、現存している懐徳館、納戸蔵、黒鉄門、東多門、西多門、詰門、廊下門、大手門、矢狭間塀は、再建当時を伝える貴重な建物で、国の重要文化財に指定されています。山内一豊といえば、妻の千代が嫁入りの時のへそくりで、夫のために駿馬を買ったという内助の功は有名です。現在の二の丸では駿馬をつれた一豊夫人の銅像が出迎えてくれます。
現存の大手門から現存天守を見上げられるのは高知城だけです。南海の抜けるような蒼空に、天守閣は小柄な美人のようにたたずんでいます。
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