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コラム

2020年02月25日

第37回 城づくり名人伝 ~加藤清正伝説~

強い反りが特徴
居城の熊本城石垣

城づくりの名人としても、数々の伝説を残した加藤清正についてご紹介します。
関ヶ原の戦いで、徳川勢の東軍として活躍した清正は、その功績で肥後(熊本県)五十四万石の大領主となり、従四位下肥後守に叙任し加藤肥後守と呼ばれるようになりました。
その後、居城の熊本城を大改修し、壮大な石垣と天守、櫓を築造します。

この石垣は「扇の勾配」「武者返し」と呼ばれ、強い反りが特徴で三日月のような形の石垣なので「清正流三日月石垣」という名称まで生まれました。ここからも石垣造りの名人として世に知られるようになっていきます。

江戸城・名古屋城の石垣普請

江戸城の石垣普請では、当時は一面の沼地であった日比谷から桜田辺りを浅野長晟と共に命じられました。基礎固めには困難を極めたのですが、清正は茅を敷いて子供達をその上で遊ばせたため石垣普請はなかなか進まなかったのですが、おかげで茅は踏みしめられ地固めができ、浅野家よりもずっと遅れて石垣の築造が終わったのです。
ある日大雨が降り、浅野家の石垣はあちこちで崩れても、茅を敷いたおかげで加藤家の石垣は全く崩れなかったといわれています。

また、名古屋城の天下普請の時は場内で最も高い石垣である天守台の築造を一人で受け持ちたいと申し出でいます。当時の名古屋城は日本最大の天守ですから、大重量を支える石垣が必要です。
この石垣は清正流の見事な反りを持つ高さは19.5m、6階建てのビルに相当し、今でも残っており、石垣の隅は見事な算木積です。

天守台の反りのある石垣の隅石の角度を正確に定めて据えるには、高度な技術が必要とされるため、その技術を盗まれないように作業中は幕を張って行われました。名古屋城天守台石垣の隅石には、「加藤肥後守、内小代下総」という刻銘が今も残っています。この巨大な隅石を運ぶ時には5~6千人で綱を引き、見物人にも酒を振る舞い大盛況であったという記録も残っています。

石垣づくりの名人伝は数多くあるものですから間違われ易いのは、名古屋城本丸東門の桝形に使われている巨石「清正石」。これを運んだのは、清正ではなく福岡城主の黒田長政です。

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