コラム
第34回 北条氏の戦意喪失させた「一夜城」~総石垣造りの陣城~
所在地=神奈川県小田原市
種類=山城
別名=石垣山一夜城・一夜城
石垣山一夜城は、天正十八年(1590年)小田原合戦の際に、小田原城全域を眼下に収める標高260mの尾根上に豊臣秀吉が築いた陣城です。
塀に杉原紙(播磨特産の薄い和紙)を貼り、土塀を城壁に見せかけて、夜のうちに小田原城側の木を一気に取り払ったため、相手側の北條氏からは一夜のうちに突然城が現れたように見え、たて籠る兵達は腰を抜かすほど大変驚いたというエピソードが、一夜城という名前の由来となっています。この間、約82日という短期間であったため、高石垣を備えた近代城郭の出現に、相手側は戦意を失ったといわれています。
「一夜城」という名前から大した城ではないと思われがちですが、実は、本格的な縄張りを持つ総石垣の城で、関東初の豊臣の城といわれるのに相応しい長期戦に備えた本格的な城郭です。
最高部の本丸周囲の、礎石が点在する本城曲輪には南西側に西曲輪、南東側に南曲輪、東には二の丸と井戸曲輪が配置されています。
井戸曲輪は石垣で四方を固めて、中央を掘って谷の湧き水を利用した造りです。城全体でもこの曲輪の石垣が特に良く残っていて、西国の穴太衆の技が光る野面積みの美しい石垣を見ることが出来ます。この場所は必見です。井戸曲輪は織豊系の城に見られる特徴の一つで、石垣一夜城は、当時としては最新の築城術が駆使された時代の先端を行く城であったのです。
秀吉が石垣山に本陣を移して間もなく北条氏真は降伏し小田原攻めは幕を閉じ、石垣普請に携わった穴太衆達は西国へと戻ります。その後、秀吉は奥州仕置きの帰りに再び石垣山一夜城に立ち寄り、徳川家康の家臣で小田原城主となった大久保忠世にこの城を与えたと伝えられています。その後、石垣山一夜城が歴史の表舞台に登場することはありませんでした。天守台跡からは多量の瓦片が出ているので、瓦葺きの天守が存在していたのかもしれません。各所に現存する石垣から当時の武士(もののふ)の息づかいが聞こえてくる様で、まだまだ解明されていない事実が秘められているような気がしてなりません。(老友新聞社)
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