コラム
第23回 落城・焼失、再建の歴史…「伏見城」~将軍宣下の城
所在地=京都府京都市
種類=平山城
伏見城で死去した豊臣秀吉の遺言で、遺児である秀頼は大阪城に移り、徳川家康が伏見城に入ったのが慶長3年。翌年には家康も大阪城の西の丸に移りました。
後の慶長5年、上杉討伐のために徳川家康は東国大名を率いて出陣。これを見た石田三成は好機とばかりに守りの薄い伏見城を攻撃し、激しい攻撃戦の末に伏見城は落城・焼失します。これが、関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦いです。
焼失した伏見城は関ヶ原の戦い後、この時はまだ豊臣政権の一員であった家康により豊臣の城として旧状に再建されます。しかし、後の資料から再建に際して本丸と名古屋丸を結ぶ虎口が塞がれた可能性があることが解っています。
また、城域南東部の山里丸、北部の弾正丸、大蔵丸、徳善丸、御花畑山荘などは再建されていません。御花畑山荘などが、遊園地として営まれていたことから、このあたりが城域と認識されていなかったということが解ります。
一時、徳川政権の拠点に
慶長6年、家康、秀忠親子が伏見城に入ってからも、本丸の御殿建築や石垣普請の工事は続けられ、家康が慶長12年に駿府城に入るまで、伏見城は徳川政権の拠点でした。
大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡すると伏見城の軍事的役割は低下し、元和五年には廃城が決まります。徳川家光の将軍宣下式は、廃城が進む伏見城で行われた記録が残っています。
城内の建物は、天守が二条城に移されたのをはじめ各地に移築されています。
透彫りと極彩色が美しい西本願寺唐門は伏見城からの移築と伝えられており、福山城伏見櫓は伏見城からの移築が実証されています。
滋賀県大津市三井寺の現存している三重塔は、焼失前の伏見城の山里丸の南西に延びる尾根上にあった大和比蘇寺から移築されています。
伏見城の面影を辿る旅も見どころが多いように思います。(老友新聞社)
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