コラム
第21回 「小諸城」~桐紋金箔瓦の天守建つ城
別名 穴城・酔月城・白鶴城
所在地=長野県小諸市
種類=平城
この城の最大の特徴は、三の丸や東側に広がる城下町の標高が最も高く、本丸に向かい低くなっているので、そのために穴城という別名が付いています。千曲川から見れば断崖上の急な崖上に城が聳えていることになります。
この城の縄張りをしたのは、武田信玄の軍師であった山本勘助といわれています。千曲川の断崖が背後に迫り、北西を中沢川、南東を松井川に挟まれた天嶮を上手く利用して築かれた城です。その周囲には、広くて長い空堀が三重四重になり、曲輪は空堀で仕切られ、主要曲輪は、千曲川から東に向かい本丸・北の丸・二の丸・三の丸とほとんど一列に連なっています。
天正10年(1582年)、武田氏滅亡後、滝川一益が入り、のちに徳川家康領となりました。そして、小田原攻めにより、北条氏が滅亡すると、秀吉子飼いの仙石秀久が五万石をもって新城主に任命されています。
近世の小諸城はこの秀久によって整えられますが、天正14年の九州平定戦で島津氏に大敗し改易、蟄居となりましたが、徳川家康の口添えで小田原攻めに従軍を許され活躍し功名を立て再び大名に配せられました。関ヶ原の戦い後、仙石氏は豊臣恩顧の大名でありながらそのまま城主として安堵されています。小諸は中山道の江戸への入り口を占める拠点として重要な場所です。いかに家康から信用されていたということではないでしょうか。
秀久が行った大改修の特徴は石垣の使用と天守の造営でした。天守には桐紋の金箔瓦が使用されていたことが解っています。桐紋は秀吉が関東に封じ込めた家康を牽制したものだと考えられています。
現在は観光名所の「懐古園」となり、秀久の築いた大手門や野面石積み石垣は約400年前の当時のまま残されています。それに加え、島崎藤村の小諸時代を代表する藤村記念館、徴古館、郷土博物館、動物園など多くの文化施設があり、親子三代で楽しめます。(老友新聞社)
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