コラム
第20回 「彦根城」~徳川四天王・井伊家の城。登り石垣など実践的縄張りも。
所在地=滋賀県彦根市金亀町
種類=平山城
関ヶ原の戦いの功績で、徳川四天王の一人、井伊直政は石田三成の旧領だった佐和山城に入城した後没し、世子の直継が彦根山に築城したのが、今の彦根城。直政の養母として伝わっているのが、今放映中の大河ドラマの井伊直虎です。
彦根城の築城は天下普請で開始され、この時、大阪城には豊臣秀頼がいたため、彦根城の築城は大阪城に対する前線基地であったことが解ります。彦根山の山頂部を中心に、本丸、西の丸、太鼓丸、鐘の丸などが構えられました。
大阪夏の陣で豊臣が滅ぶと、改めて築城工事が始まり、これは譜代筆頭の井伊家の居城としての整備工事であり、山麓に表御殿、中堀廻りの石垣や諸門も完成しています。堀切や登り石垣を用いた戦国的な構造は実践的な縄張りとなっていて、この城の特徴の一つです。
天守は三重三階で切妻破風、千鳥破風、唐破風を多用する変化に富んだ屋根を持ち、二重、三重の窓を華頭窓(上枠を花形に造った特殊な窓)にするなど優美さを演出しています。
この天守は当初は大津城の天守だったのですが、関ヶ原の戦いの前哨戦で落城しなかったために、徳川家康の上意によって「めでたい天守」として移築されたものです。
明治まで一度も戦禍にあわず
西の丸三重櫓は、俗説には小谷城の天守を移したといわれていますが、『井伊年譜』によると、この櫓の瓦は小谷の土で焼いたことが記されているため、これが俗説につながっているのかもしれません。
鐘の丸と太鼓丸の間には大きな堀切が設けられ、前面に構えられているのが天秤櫓という櫓門です。
「天秤」という名は左右対称の姿に由来しますが、実際には左右対称にはなっておらず、この櫓は年譜には、長浜城の大手を移築したものと記されています。
彦根城には五カ所に登り石垣がありますが、この石垣は、秀吉の挑戦出兵に際し築かれた倭城に用いられた防衛施設の影響を受けたものと考えられています。
江戸時代を通して彦根藩主は井伊家であり、彦根城は一度も戦禍にあわず明治を迎えました。
井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたのは、本丸築城から200年以上後の出来事です。(老友新聞社)
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