コラム
第17回 かつては強い軍事性も今は訪れる者の憩いの場に…「桑名城」
別 名=扇(おうぎ)城
所在地=三重県桑名市
種 類=平城
桑名城は初めて築城された年代は定かではありません。織田期には信長の支城となり、城主は変遷し、関ヶ原の戦い後の慶長6年、徳川四天王の一人、本田忠勝が上総大多喜城から十万石で封じられ城主となり、10年の歳月をかけ城郭を整備し、天守以下五十の櫓、46の多門櫓が立ち並ぶ壮大な城を完成させたのです。
桑名城は東海道唯一の海路である宮宿(名古屋市熱田区)と結んだ七里の渡しの船着き場を備えています。
船着き場からは外郭内部を東海道が突き抜けて、陸路と海路、そして東海道のような大きな街道を城内に取り込んでいたのは、桑名城以外にありません。
北側の揖斐川、東側の伊勢湾に面した所には櫓を作り海上に対する備えも万全でした。
「正保城絵図」に描かれている桑名城は、本丸北東隅に四重六階で二重の小天守と付櫓を持つ天守があり、本丸塁上には三重櫓が三つ構えられ、その南側には二の丸が廊下橋で結ばれています。
この作りは高松城にも見られ、本丸と二の丸の連絡を良くしようとしたためです。
二の丸内部は迷路のように導線が複雑になっており、軍事性を高めていたことが解ります。
真田信幸が「恐るべき舅」と思っていたといわれる、本田忠勝が大改装しただけある、軍事性を強固した城です。
しかし残念ながら、最後の城主、松平定敬が佐幕派だったので、明治以後破却となり、かつての威容は絵図でしか見ることが叶いません。
現在の桑名城は九華公園となって、石垣や建物はないものの、満々と水をたたえた幅の広い堀に赤い橋がかかり、かつて揖斐川の河口に築かれた名残りを感じることが出来ます。
本丸跡に神戸櫓の櫓台があり、これは伊勢神戸城の天守を移築したもので、櫓台の石垣は取り壊されているものの、かなり大きな櫓だったことが想像されます。
歌川広重の「東海道五十三次」に描かれている桑名城は、公園の手前で凛々しい忠勝が出迎えてくれ、今は市民の憩いの公園に姿を変え、「城に行く」というよりも散歩気分で出かけられます。
所々にかかる赤い橋を眺めていると、かつて城があったとは思えないほど、ゆったりとした時間が流れています。(老友新聞社)
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