コラム
第15回 「神君」家康誕生・松平一族の城…岡崎城
別名= 龍城・龍之城
所在地=愛知県岡崎市
種類=平城
今年の3月から山岡荘八「徳川家康」を読み進め、今ちょうど桶狭間の戦いで今川義元が滅び、元康(家康)が家臣と共に岡崎城に戻った所です。歴史の舞台の城に行ってみると、ただ建物や作りを見るだけでなく、いろいろな角度から見物出来るので感動も一段と濃くなります。
岡崎城の創築は享徳元年(1452)~康正元年(1455)頃に北方に対する砦として築かれました。家康の祖父清康が牧野氏の吉田城を落とした後、亨録4年(1531)に改築し岡崎に本拠を移し、この地で松平竹千代(徳川家康)が誕生しました。幼くして織田、今川の人質となり苦労した家康は、桶狭間の戦い後、岡崎城に戻り、ここを拠点として三河を統一して行ったのです。
この間、武田、豊臣に対峙するため、「権現様のお縄張」という改修が行われた事が発掘調査で確認されています。天正18年(1590)家康が関東に移封されると、豊臣秀吉家臣の田中吉政が入城し、東国の家康に対する拠点城郭として整備し、城北、西の沼地を埋め立て、城下を整えました。「田中堀」と呼ばれた堀と土居は近世岡崎城の基礎です。それ以後は封せられた譜代大名により城域の拡張、増改築がなされ近世城郭として完成していきます。
岡崎城は矢作川と乙川の合流部にある河岸段丘にある平山城でしたが、元々が低い丘という事と、大改修によって平城に変わっています。その縄張は乙川を天然の要害として、本丸周辺には内堀りを巡らせ、北側には曲輪を重ねています。
徳川時代の岡崎城は慶長年(1601)に「二十七曲」と呼ばれるほど、東海道を曲折させて、その道筋も北側へ大きく迂回させ、白山曲輪、東の馬出の築造など、城域の拡張とともに、防衛上の強化をしたものと考えられます。元和3年(1617)には天守が再建され、菅生門から稗田門にかけての曲輪周辺と乙川端を石垣にするなど、城南部の守りも固めています。こうして江戸時代には城域の拡張と強化を図り、最盛期には西、北、東を囲郭する惣構、本丸北方に六重、西方に四重の堀をめぐらせる大城郭となっていったのです。
家康自ら普請の命を出していたことから、戦略上配慮ある「神君誕生」の城です。現在の城内にはそんな事を全く感じさせない、からくり時計が設置され、時間になるとかわいい家康が舞いながら出て来て、のどかな時間が流れています。
最後にちょっと美味しいご案内をしましょう。岡崎城から西へ八町離れていた八丁村では、矢作川地域で収穫される矢作大豆を使った豆味噌が作られていました。それが岡崎名物八丁味噌です。
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