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コラム

2017年03月10日

第12回 会津若松城〈砲弾の雨にも震度6以上の地震にも耐え…その裏には白虎隊の悲劇も〉

所在地=福島県会津若松市

種類=平山城 

奥州と江戸の中間にあたる会津を重要と考えた秀吉は、北の大名伊達政宗と最上義光、東の徳川家康を抑えるため、実力派で信頼の出来る蒲生氏郷にこの地を守らせたのです。

会津若松の商工業、文化、町割りの基礎を数年で整えたのがこの氏郷で、郷土土産で有名な「赤べこ」と「起き上がりこぼし」を最初に作らせたのもこの人です。

会津若松城は天守が七重だったという説があるほど、天下人の秀吉らしく豪華で頑丈で壮大。東北で初めて天守を持った総石垣の城の出現は、同時の人々にとってはセンセーショナルな出来事でした。漆喰壁の真っ白な天守をイメージする城ですが、これは、1639年(嘉永16)に加藤明成(嘉明の子)が建てた五重の天守がモデルになっています。氏郷の時代は下見板張りで真っ黒だったというのです。

この城は二つの時代の石垣が見どころです。まずひとつは城内で一番高い布積みの壮大な石垣で、これは明成が築いた高さ20メートルほどの本丸東側の高石垣です。ふたつ目は、古い野面積みの石垣で蒲生氏郷が築いたものです。天守台は勾配も緩やかで、慶長16年に起きた震度6以上の地震にも耐え、その頑丈さを知らしめました。

その他の注目場所は、朱塗りの橋がかかる廊下橋門、本丸から北出丸へ抜ける太鼓門の大きな桝形です。また、天守前にある武者走はVの字型になっている珍しい遺構です。

戊辰戦争の激戦地となった会津若松城は、一日に2千5百発ともいわれる砲弾を浴びても落城せずに堅城を証明しました。しかし、あまりにも痛々しくなったため明治になって破却されましたが、当時の写真をもとに再建され、今年は再建50周年です。砲弾を受けた当時の城のモノクロ写真は、いたる所で見ることが出来ますが、今にも崩れそうで本当にボロボロです。そして近年になり、屋根が赤瓦だったことが解り、2011年に葺き替えられて見事に幕末の姿が甦ったのです。赤い天守は全国的にとても珍しいものです。

戊辰戦争の悲劇で有名なのは、城の周りの武家屋敷が燃えているのを飯盛山から見て、城が燃えていると錯覚し、城を守れなかったという自責の念で自刃した、現代の高校生位の年代の少年達から成る白虎隊です。飯盛山の中腹には彼ら19人の墓があり今も静かに眠っています。(老友新聞社)

白虎隊像

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