コラム
マコのよもやま話 | 和泉 雅子
連載2 女優 和泉雅子 誕生
やんちゃ坊主だった私も、いよいよ小学一年生。ランドセル背負って、はりきって登校した。一年二組だ。私たちの年代は戦後のベビーブーム。六十人近い子供達がひとつの教室に、後ろまでびっしり座っていた。
さて、最初の授業は、まず自分の名前をノートに書くことだった。皆スラスラと平仮名で書いている。ところが私、遊びほうけていたので、文字なんて教わっていない。しかたがないので、丸、バツ、四角と記号で書いた。それでも書いたことにはちがいはない。これが学校の勉強のスタートだった。あとは言わずもがなである。
いよいよ授業が始まったが、先生が何を言っているのか分からない。もちろん日本語なのだが、言っている意味が分からない。勉強が見事に嫌いになった。一学期の最後に、初めての通信簿が一人ひとりに渡される。私達の頃は5段階。つまり、1から5までで、当然5が最高成績である。いよいよ私の番。ウキウキとして受け取ったら、見事に1と2しかなかった。それを見た友達が、オイッチニー、オイッチニーとはじめたものだから、クラス中がオイッチニーと足ぶみをしてはしゃいだ。その日から私の徒名は「行進曲の和泉」になった。たまたま学校に慣れなくて、これ一回こっきりだと思っていたが、見事に小学校卒業するまで「行進曲」だった。
ア、一回だけ3を取ったことがある。三年生の時だ。外堀が高速道路の工事を始めた頃、なんと泰明小学校始まって以来、三組が出来た。私はその三組になった。その途端、図画・工作で3をとった。夏休みの宿題で皆、絵を提出していた。が、すっかり忘れていた。咄嗟に「うちに忘れてきた」と嘘をつくと、先生珍しく「じゃあ、これから取ってきなさい」と言う。しかたなく我が家へ。慌てて画用紙を出し、めちゃめちゃに線を引き、いろいろな色で線の間を塗り、学校へ飛んで帰った。なんとその絵が中央区のコンクールで優勝。その、3である。通信簿を渡しながら先生「和泉、ワルツだぞ」とお褒めのお言葉。なぜかその年だけ徒名が「ワルツの和泉」になった。
学校をサボるための、ありとあらゆる手をうった。体温計にハアハア息をかけ「8度もある」「お医者さん呼んで大きな注射うってもらおうね」撃沈。あの手この手で訴えるが「じゃあ、おまわりさん呼んじゃうよ」「校長先生呼んじゃうよ」と尽く撃沈。もう、手がなくなってしまた。
が、五年生の時、新聞に児童劇団若草の広告が掲載されていた。
「テレビや舞台に出演してみませんか。モデル部もあります」
――あ、これだ。絶対これだ。受かれば、堂々と学校が休める。鼻をふくらませて、両親に懇願。両親はお見通し。「受かったら、芸能界で一生やる、と言うのなら許す」一生や芸能界なんてチンプンカンプンだったが、学校サボりたい一心だったので「やる、やる、絶対やる」と叫んでいた。
当時若草は、大久保の声専音楽学校を、土日だけ借りて授業を行っていた。さて、試験の日。まずダンスの試験。先生について踊ったが、まったく踊れなかった。妙に目立ってしまった。次は歌の試験。途中までしか知らない曲を、なぜか歌ってしまった。先生達あきれる。いよいよ演技の試験。先生が
「雅子ちゃん笑ってごらんなさい」「おかしくもねえのに笑えねえよ」
「泣いてごらんなさい」「かなしくもねえのに泣けねえよ」
しまった。もろ、江戸弁が出た。ああ、落ちた。子供心にそう思った。それから数日後、合格の通知が届いた。なんと、この年からモデル部ができて、顔が美しかったから合格したとか。捨てる神あれば、拾う神あり。これで、堂々と学校がサボれると、満面の笑みを浮かべた。
昭和三十二年。十歳。女優和泉雅子の誕生の瞬間である。なんちゃって。じゃあ、またね。
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- 和泉 雅子
- 女優 冒険家
- 1947年7月東京銀座に生まれる。10歳で劇団若草に入団。1961年、14歳で日活に入社。多くの映画に出演。1963年、浦山監督『非行少女』で15歳の不良少女を力演し、演技力を認められた。この映画は同年第3回モスクワ映画祭金賞を受賞し、審査委員のジャン・ギャバンに絶賛された。以後青春スターとして活躍した。
1970年代から活動の場をテレビと舞台に移し、多くのドラマに出演している。
1983年テレビドキュメンタリーの取材で南極に行き、1984年からは毎年2回以上北極の旅を続けている。1985年、5名の隊員と共に北極点を目指したが、北緯88度40分で断念。1989年再度北極点を目指し成功した。
余技として、絵画、写真、彫刻、刺繍、鼓(つづみ)、日本舞踊など多彩な趣味を持つ。 - 主な著書:『私だけの北極点』1985年講談社、『笑ってよ北極点』1989年文藝春秋、『ハロー・オーロラ!』1994年文藝春秋。
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