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マコのよもやま話

マコのよもやま話 | 和泉 雅子

2023年08月17日

連載15 40円、貸してえ

昭和37年10月のことだった。日活に入社して1年と3か月。15歳になっていた。

ある日、演技事務室に呼ばれた。ここは俳優さんに台本を渡したり、毎日の撮影のスケジュールを調整し、明日は9時開始でこの場面を撮影するよ、と教えてくれる係。この部屋にちょこっと仕切りがあり、そこに呼ばれた。「マー坊、次の映画は、これだよ」渡された台本を見て、びっくり。青い表紙に太い黒い文字で『非行少女』と書いてある。「えっ、不良の役。無理、むり、出来ない」学校さぼりたくて女優さんになったけど、無理。断ろうとした途端「マー坊、小百合ちゃんも浦山桐郎監督の『キューポラのある街』で、女優さんとして成長したんだよ。マー坊も15歳になったんだから、この作品で成長しようね」えっ、サー姉ちゃん(吉永小百合さん)の柳の下の二匹目のどじょう。うれしい。サー姉ちゃんの二匹目のどじょうになれるなら、やっちゃおう。と引き受けてしまった。

浦さん(浦山監督)とご対面の日。監督室に入る。初めて見る浦さんは、細っこくて厳しい顔つき、人生のすべてが文学一辺倒に見えた。きっと笑ったことがないんだろう、と勝手な想像を巡らせた。けれど、この日は運が悪い。少年サンデー・マガジンの発売日。まず読まなければ、せりふも覚えられない。演技もできない。いきなり打ち合わせ中にマンガを読みだした。浦さん、絶句・唖然・絶望。「この子、字が読めるのか」と叫んだ。「うん、難しい漢字以外は、読めるよ」これが『非行少女』のスタートだった。

10月・11月は金沢ロケ。浦さんの言うとおりに演技をするが、ダメ。何回やっても、ダメ。何時間やっても、ダメ。幸せな娘さんに見えると言う。

いよいよ、ラストシーンの撮影。浜やん(浜田光夫さん)に励まされ、更生して大阪の縫製工場に向かう、駅のホームのお別れのシーン。まずい。駅に売店がある。今日は少年サンデーとマガジンの発売日。思わず浦さんに「ねえ、40円貸してえ」「何買うんだ」「今日、発売日なの」浦さんの髪の毛が逆立ったのが見えた。後に、浦さん曰く「あの時は本当にショックで、台本をホームに叩き付けてこの作品をやめようと思った」

そうか。それで髪の毛が逆立ったんだ。長い間の謎が解けた。気がした。

11月末、金沢ロケは終了した。12月・翌年1月は、私が3本の映画を撮るため、浦山組はお休み。

実は浦さん『非行少女』は自分が見出した女優さんで撮りたかった。スタッフ一同「浦さん、今なら間に合う。その子で撮り直そう」「いいや、僕はマー坊で撮ることにした。きっと大丈夫。いける」と浦さん。

そんなこととは露知らず、正月映画の『海の鷹』、サー姉ちゃん主演の『泥だらけの純情』、初めての海外ロケ『空の下遠い夢』ではなんと横浜港から世界一周のイギリスの貨客船・チトラル号で、香港、シンガポールへ。初のパスポートを取得して、予防注射をして、出発。帰りはなんと、シンガポールの国際線の飛行機で羽田に帰国。バタバタの2か月間だった。

2月・3月は再び浦山組。撮影再開だ。ところが不思議。浦さん、私がどんな演技をしても褒めてくれる。おかしいなあ、と思いながら、ついついお調子者の私。きっと主人公の「若枝ちゃん」が乗り移って不良に見えるんだ、などと勝手に思い込み、悦に入っていた。

4か月かかった撮影は、無事にクランク・アップ。すぐに『川っ風野郎たち』『交換日記』と撮影。

『男の紋章』の撮影中、知らせが届いた。世界55カ国が参加する第3回モスクワ国際映画祭で『非行少女』が金賞を獲った、と言う。審査員のジャン・ギャバンさんが「この少女は、将来凄くなる」とお褒めのお言葉。ヤッター。これで完璧に学校が休める、と大喜び。

でも、まさか、『非行少女』が私の代表作となるとも知らず、実に呑気な私。ごめんね浦さん。これが私なの。自然体の私なの。じゃあ、またね。

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和泉雅子
  • 和泉 雅子
  • 女優 冒険家
  • 1947年7月東京銀座に生まれる。10歳で劇団若草に入団。1961年、14歳で日活に入社。多くの映画に出演。1963年、浦山監督『非行少女』で15歳の不良少女を力演し、演技力を認められた。この映画は同年第3回モスクワ映画祭金賞を受賞し、審査委員のジャン・ギャバンに絶賛された。以後青春スターとして活躍した。
    1970年代から活動の場をテレビと舞台に移し、多くのドラマに出演している。
    1983年テレビドキュメンタリーの取材で南極に行き、1984年からは毎年2回以上北極の旅を続けている。1985年、5名の隊員と共に北極点を目指したが、北緯88度40分で断念。1989年再度北極点を目指し成功した。
    余技として、絵画、写真、彫刻、刺繍、鼓(つづみ)、日本舞踊など多彩な趣味を持つ。
  • 主な著書:『私だけの北極点』1985年講談社、『笑ってよ北極点』1989年文藝春秋、『ハロー・オーロラ!』1994年文藝春秋。
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