コラム
かがやく人
きっかけは息子のいじめ。「40歳からの田舎暮らし」/柳生博さんインタビュー
八ヶ岳山麓に生活の拠点を構え、多忙な日々を送りつつも、自然と向き合って暮らしてきた柳生博さん。発売中の『自然を生きる、自分を生きる』が生まれたきっかけ、日本野鳥の会での活動、八ヶ岳での暮らしなどについてお話を伺いました。
お月さまや虫と同じ。自分も自然の一つ
――発売中の『自然を生きる、自分を生きる』(河出書房新社)では、歌手の加藤登紀子さんと対談。東京と地方の”多元生活”を送るお二人ならではのユーモアたっぷりな語り口が印象的です。本が生まれたきっかけは?
柳生 お登紀さん(加藤登紀子さんのことを柳生さんはこう呼びます)との付き合いは、かれこれ30年ぐらいになるかな。今回、2人の対談が本になったのは、僕が毎月行っている企業向けの対談連載にお登紀さんを招いたことがきっかけ。しゃべってもしゃべっても話が尽きなくて、改めて日を設けて、本になったんです。お登紀さんは、長年、東京を拠点にしながら、千葉県に鴨川自然王国という場所を持ち、僕と同じように多元生活をしています。以前、テレビ番組の企画で、鴨川自然王国の畑のサル被害を解決するため、僕が現地に行って、動物除けのドッグランの柵を設置したりして、一緒に汗をかいたよ(笑)
――今回のタイトルは、どんな思いからついたのでしょう?
柳生 タイトルを『自然を生きる、自分を生きる』としたのは、自分も自然の一つなんだよという意味です。お月さまは星の一つだし、虫は生き物の一つ、それと同じように自分もそれらの一つなんだと。僕は、日本野鳥の会の会長をやっていますが、そういった活動をしていると、時々、あたかも我々が自然を守っているみたいな感覚になるときもあるんだよね。でもそうじゃなくて、自分もその中の一つに過ぎないんだと。それをお登紀さんに話していると、何の説明もいらず共感してくれる。
――日本野鳥の会の活動で、面白いのはどんなところですか?
柳生 僕が日本野鳥の会で会長を始めて、15年たちます。会には北海道から沖縄まで支部があるんだけど、僕はそういった支部を訪れては、鳥を好きな人たちからさまざまなことを教えてもらってるんだよね。野鳥とひと言で言っても、北海道の鳥と沖縄の鳥はまったく違うからね。学者に聞くのとは違った面白みがあるんです。
ある程度年を取ったら、鳥や花、風(気候の移ろい)、月――いわゆる花鳥風月を楽しむことがおすすめだね。中でも鳥は、誰でも身近なところで見ることができるし、いろんな鳴き声を聞くことができる。実は、これからの季節(取材は4月上旬)、月が出ていると夜でも鳥がさえずるんだよ。鳥を知ると、季節を感じることができるんです。街中に住んでいると、なるべく周りを見ないように、物音を聞かないようにって、五感を閉じてしまうじゃない。きょろきょろしていたら、不審者と間違われるかもしれないってね(笑)。でも、そうゆうことに耳をふさがずに歩くようにしていたいね。
難しいことは木に相談。日本中に自分の木がある
――柳生さんは、芸能界で田舎暮らしを始めた人のパイオニアです。仕事は東京、生活は八ヶ岳といった暮らし方を選んだきっかけは何だったのでしょう?
柳生 八ヶ岳で暮らすようになったのは、僕が40歳のときでした。その頃僕は急に有名になって、年間700本くらいテレビの仕事をしていたんだけど、あるとき久しぶりに家に帰ったら、小学4年生の長男が頭から血を流して帰ってきたの。「どうした?」って聞いたら坂道で転んだと。でもそんな傷ではないなと。結局、いじめだったんです。家族が壊れていくと思いました。そのとき「息子に野良仕事を教えよう」と思い立ち、八ヶ岳に雑木林を作って、家族で暮らすことにしたんです。
荒れ果てた人工林を少しずつ買い取って、息子やかみさんと一緒に落葉樹を植えていきました。もう何千本、何万本って木を植えて、いまではもともと生えていた木は2本だけになりました。ところで、僕はどこへ行っても、自分の木を決めるんです。
――自分の木? どういう意味でしょうか?
柳生 これは祖父の教えです。子どもの頃、「何か難しいことがあったときは人に相談するな。本当に難しいことは木に相談しろ」と、言われて育ったんです。だから日本中、いろんな所に僕の木があるわけ。いつだったか、難しい問題を木に相談しようと木を抱っこしてみたんだけど、何にも応えない。祖父に「木は何にも言わないよ」って言ったら「そうじゃなくて、寄りかかるように(体の後ろに手を回して)抱っこするんだよ」って言うんです。それからは、なるべくもたれかかることのできる木を探すようにしているの(笑)
八ヶ岳倶楽部では、若いスタッフたちと一緒に野良仕事をするのが日課だそう。
取材・文/笑(寳田真由美) 撮影/八ヶ岳倶楽部
柳生 博(やぎゅう・ひろし)さん
1937年、茨城県生まれ。俳優。東京商船大学中退後、劇団俳優座の養成所へ。俳優業の傍ら、山梨県八ヶ岳南麓に住処を求める。1989年に八ヶ岳倶楽部を開設。公益財団法人日本野鳥の会会長、コウノトリファンクラブ会長。
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