コラム
「異国からの訪問者」 情報をもたらす伝導師~連載67
我が国は1639年ポルトガル船の来航禁止からペリーが来航した1855年まで214年も鎖国をし、これによって、オランダ、明、朝鮮以外の国との国交はなくなりました。
鎖国をした理由は、キリスト教を禁止する以外に、戦国時代に大儲けしたポルトガルや、フィリピンを占領したスペインに対して不信感を抱いていた家康に乗じたオランダの日本貿易独占の意図と、海外貿易で力を付けてきた九州の大名達の貿易を幕府占領として、幕藩体制を整えるためでした。
その鎖国の最中、海外からやって来た人は日本に多くの足跡を残してくれました。彼らは日本文化に興味を持ち、理解を示し、それぞれの視点で書き記したり、書物に残しています。今回はそのパイオニアと言われた訪問者を私の好みでご紹介いたします。
まずは、ペリー。アメリカ海軍将官で、日米和親条約の締結により日本を開国させた立役者です。ミシシッピ号の他3隻を率いてアメリカ大統領フィルモアの国書をもたらし1853年浦賀沖に来航。この時の日本人の驚きは歴史の教科書の通りです。
オランダ船のイギリス人航海長アダムスとオランダ人ヤン・ヨーステンは1600年に同じ船で豊後に漂着し、共に家康のブレーンとして活躍しました。アダムスは三浦安針と名乗り、オランダ、イギリス東インド会社との通商に尽力し、ヨーステンはタイ、ベトナムの朱印貿易にあたり、オランダが対日貿易の独占を果たすことに貢献しています。
今の「八重洲」という地名のヤエスはこの人が住んでいたことに由来しています。八重洲の地下街には銅像がありますので、探してみてください。
あまり知られていないポルトガル生まれのイエズス会宣教師ロドリゲスは、江戸になる少し前に漂流して来日し、秀吉の通訳を務め、ポルトガルによるキリスト教の布教と貿易に力を注ぎ、日本の茶道や禅に造詣を深くしています。その後家康に追放され、マカオで『日本大文典』と『日本教会史』などを書き記しました。
江戸時代の中頃には、ドイツ人ケンベルが、閉ざされていた日本に西洋の貴重な情報を広め、帰国後には日本を西洋に紹介しています。
最後に日本地図の持ち出しが発覚した「シーボルト事件」でお馴染みのシーボルト。東インド会社のオランダ商館付医員として長崎にやって来たドイツ人です。鳴滝塾を開設し、高野長英、伊藤圭介など数十名の門下生を育てています。
以上、ご紹介した外国人それぞれの人物像にふれると、理知的に日本を観察してくれたことがよく解ります。
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