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コラム

2021年08月10日

「外国人屋敷」江戸を訪れた外国人~連載62

(本稿は老友新聞本紙2016年5月号に掲載された当時のものです)
ここ数年、沢山の外国からお客様が増えたと実感しています。銀座通りを歩いていると他所の国の言葉が氾濫し、日本語が聞こえるとなぜかホッとする不思議な現象が起こっています。桜の頃は東京出張のビジネスマンのホテルが全く取れないという状態でした。

外国人は江戸時代にも日本を訪れています。鎖国というと外国との交流を絶っていたと思いがちですがそうではありません。例外的に交易はしていたし、お隣の国からは朝鮮使節が江戸の人々と交流し、江戸城にも登城していました。

三代将軍家光の時に出された鎖国令は、オランダのみ貿易を許していたので、オランダ商館長はそのお礼のため、江戸城で将軍家光に面会し献上品を送り、それ以降は将軍に挨拶をするのが通例になっていました。この機会に将軍達は異国の文化を自身の目で学び、体感し、視野を広め、そしてオランダはそのことで貿易を独占し続けることが出来たのです。

しかし、当時の幕府は厳しいキリシタン弾圧を行なっていたため、イタリア人宣教師が江戸の小日向茗荷谷の切支丹屋敷に捕えられ、六代将軍家宣は生活費を支給するなどの優遇措置を図ったのにも関わらず、布教しないという禁を犯したため、地下牢に移されたケースもあります。また、今の日本橋室町四丁目に『長崎屋』という黒塀に囲まれた本陣作りの「オランダ宿」と呼ばれる、オランダ商館長達が江戸で宿泊した宿があり、一行がやって来ると天文学者、蘭学者、幕府医師が訪れ、最新の知識を吸収して勉学に励んでいたのです。

江戸時代を通して24回来日したのが、将軍の代替わり、世継ぎ誕生などのため、朝鮮王国が使節を日本に派遣した「朝鮮通信使」です。幕府は最高の待遇でもてなし、幕府の威光を庶民に見せつけるために江戸城にも招待しました。その様子は「江戸図屏風」にも描かれています。一行はだいたい400人程で、ラッパなどの音楽隊を連れ朝鮮国の礼服をまとい威儀を正して江戸城に向かっています。

華やかな礼服を着た異国人の行列は、物身高い江戸の人々の関心の的で、江戸城への沿道は祭りのような人、人、人。この見物人を狙って飲食物の屋台が出たというのですから、相当賑やかだったと思います。

鎖国状態だった日本では、この通信使の来日は異国の文化に触れるこの上ないチャンスでしたから、滞在宿には、文人墨客が訪れ交流も盛んになり様々な新しい文化の種が入り、花開くこととなってゆくのです。

考えてみると、初めて異国の人に会った日本人はどの様に言葉を理解したのでしょうか? 私は不思議でなりません。他言語をどの様にして日本語に訳したのでしょうか? 先人の知恵と努力は考えも及びません。しかも、コミュニケーション能力がなんと高かったことか!

初めに事を成し遂げた名もなき先人は偉大です。言葉、文化の違いを寛容に受け止め、そして異文化を吸収する力。電子辞書など魔法のような新兵器を持つ私達は何とも時代に甘えた恥ずかしさを感じます。江戸しぐさには「とつくに付合い」というものがあります。他国の人と摩擦を起こさず仲良く過ごすための心得です。これから増々外国人が来日するにあたり、先人の柔らかく温かい心を見直し、恥ずかしくない日本人でありたいです。
(本稿は老友新聞本紙2016年5月号に掲載された当時のものです)

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酒井 悦子
  • 伝統芸能コーディネーター / 筝曲演奏家

幼少より生田流箏曲を学び、現在は国際的に活躍する箏演奏家。

箏の修行と同時に、美術骨董に興味を持ち、古物商の看板も得る

香道、煎茶道、弓道、礼法などの稽古に精進する一方で、江戸文化の研究に励み、楽しく解りやすくをモットーに江戸の人々の活き活きとした様子と、古き良き日本人の心を伝えている。

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