コラム
「江戸煩いと大阪腫れ」白米と江戸っ子の病~連載60
ここ近年、炭水化物ダイエットなる物が注目されて、白米が悪者扱いされる事が多くなりました。炊き立てで湯気が昇りツヤツヤと輝く、お釜の中で立つご飯は日本人ならば誰でも好きなはずです。
一昔前は、三度の食事に白いご飯をいただくのは食事の基本でした。当たり前の様にも、贅沢の様にも思います。それがなんと、百年以上前の江戸っ子達も三度の食事に白米を食べていたのです。戦後の食糧難の時代を考えると以外な事ではないでしょうか。江戸庶民のほとんどが、贅沢はせずにつつましい生活をしていた事を想像すると、どうして白米を毎日食べる事が出来たのか不思議です。
例えば仮に年貢の割合を「五公五民」だとすれば、生産量の半分が農民、もう半分が武士です。武家の家計は支出の元は年貢米でしたから、半分の米のうちのそのまた半分を売却したと仮に考えると、生産量の四分の一を、町人層が購入することになります。さらに、農業技術も向上して、米の生産力も伸び、市場には農民が売却した米も出回ったので、武士が売却する年貢米の値段は下がり、貧しい暮らしに追いやられる武士が増える事態を起こしたのです。
このように、米全生産量の約三分の一程を町民層が消費していたという考えが成り立ちます。この「米余り」の事情が、江戸の庶民が三度の食事に白米を食べる事が出来たという訳です。一般人が一日三食となったのは、元禄時代(1688~1704)といわれています。この頃から米余りになっていたので、その裏返しでしょう。
三度の食事に米を精米し白米にして食べていたのは、米が随分と余っていた大都市の江戸と大阪の上級武士だけで、次第に白米を主食とする人にしかみられない病が起こります。江戸では「江戸煩い」、上方では「大阪腫れ」と言われた「脚気」です。今はビタミンB1欠乏が原因と解っていますが、当時は謎の病の一つでした。現代では忘れ去られた病気ですが、当時は沢山の人が亡くなった病で、徳川10代将軍家治、13代家定、14代家茂の死因も脚気であったといわれています。
米糠に含まれているビタミンB1を摂取するには、玄米を食べていれば良かったのですが、贅沢が仇となり脚気を引き起こしたと言えます。現代のように栄養豊かな三度の食事ではなかったので、糠の代わりになるビタミンB1を取る事が出来なかったことからでしょう。江戸は豊かな社会と呼ばれますが、流石に栄養は現代に及びません。
先日、電車の中で前に座っていた遠足の帰りと思われる子供達が、膝をたたいてポンと足が蹴り上がるのを楽しそうに繰り返していました。それを見ながら子供の頃を懐かしく思い出していました。でも、昭和生まれの私の時代は「これで脚気かどうか解るんだよねぇ」なんて言ってましたっけ。勿論、もう脚気という病気はない世の中でしたが。
白いご飯をいただいて脚気を想像すの事すら、もう今は昔の事になってしまいました。つくづく三度の食事をいただける幸せに感謝をしなければならないと思います。
(本稿は老友新聞本紙2016年3月号に掲載した当時のものです)
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