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コラム

2021年05月11日

「江戸の魚河岸」江戸前の新鮮な魚は魚河岸から~連載58

(本稿は老友新聞本紙2016年1月号に掲載した当時のものです)
歳の暮れの風物詩として、築地市場の買い出しの風景がテレビで中継されます。毎年沢山の人の賑わいを見せています。魚河岸が築地に移転したのは関東大震災後の事です。

「三日魚を食べなければ、骨が身から離れちまう」と言われる程江戸っ子は魚好きです。

魚好きの江戸っ子のお腹を満たす場所が魚河岸。今の中央区日本橋から江戸橋にかけての一帯、日本橋川の北詰には沢山の魚問屋が店を並べ、元旦以外は年中無休。江戸前以外、伊豆、遠江、安房、相模、上総、下総などからの魚を求め、毎日がお祭りの様に活気に溢れていました。魚河岸は川岸にあるからということでその名前の由来となりました。その起源は江戸時代の初期の佃島(中央区)の漁師にさかのぼります。徳川家康は江戸に幕府を開いたさい、摂津の佃などから漁師達を江戸に連れて来て、その漁師達が幕府に献上した魚の残りを売るようになり、日本橋小田原町に魚市を開いたのが始まりとされています。

そして、江戸の発展と共に魚河岸も繁盛し、組合を五つ作り魚の仲買いを手がけて「一日千両」の売り上げを誇ったと言われています。今の築地市場のように、そこに集まる人達目当てに「汐待茶屋」や数々の飲食店が立ち並んでいたので、たいそう活気あふれる賑わいだったことでしょう。

魚河岸は日本橋以外にも数カ所あり、雑魚場魚市場(現在の田町駅あたり)は落語や歌舞伎に登場する「芝浜」で有名です。

押し送りの魚船が江戸湾を縫うように魚を運んでいる様子が「江戸繁盛記」に描かれています。押し送り船というのは櫓で漕ぐ当時の高速船です。魚は鮮度が命。冷蔵庫のない当時は一刻も早く魚河岸に搬入され、「板船」に乗せられて売りさばかれて行ったのです。
「板船」というのは問屋から魚を卸された仲買人が使うもので、盤台の周りを幅の細い板で囲んで水を張れるようにしたものです。「板船」は誰もが持てるのではなく、その権利は「板舟権」と呼ばれ、数十両で取引されたと言われています。

舟を漕ぎ魚を運ぶ人、仲買人、小売り、さまざまな人達が集まる魚河岸は活気に満ちた声が飛び交いパワー溢れる場所だったのでしょう。

映画やテレビでお馴染みの、魚振り売りの一心太助は粋でいなせで喧嘩っ早い。この粋でいなせの「鯔背」とは、当時、魚河岸で働く若者に流行した髪形で、魚のイナ(ボラ)の背に似ていることから、鯔背銀杏と呼ばれ、そのから魚河岸の若者のよう粋で勇み肌の者を「いなせ」と呼ぶようになったのです。ツヤツヤとしたイナの背が所狭しと飛び跳ねながら働く様子を想い浮かべるだけで元気が出てきます。

やはりなんと言っても元気が一番!私達が元気でいる事こそ街が活気づき、国が元気になることです。それは先人から刻まれたDNAです。(本稿は老友新聞本紙2016年1月号に掲載した当時のものです)

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酒井 悦子
  • 伝統芸能コーディネーター / 筝曲演奏家

幼少より生田流箏曲を学び、現在は国際的に活躍する箏演奏家。

箏の修行と同時に、美術骨董に興味を持ち、古物商の看板も得る

香道、煎茶道、弓道、礼法などの稽古に精進する一方で、江戸文化の研究に励み、楽しく解りやすくをモットーに江戸の人々の活き活きとした様子と、古き良き日本人の心を伝えている。

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