コラム
「大名行列」行列を長くするために人材派遣の利用も…連載55
私達日本人は、海外の人から見ると行列好きな民族です。
「一日限定〇〇個」
「ついに上陸アメリカ発〇〇」
また、テレビで放送されたお店などは、翌日には行列が出来ています。更に、何だか分からないけれど、行列が出来ているから取りあえず並んでみるという方もいらっしゃるようです。
この様に行列を苦に感じない日本人ですが、江戸時代の行列と言えば、「大名行列」です。今日は大名行列を少し探ってみましょう。
大名行列は参勤交代だけではありません。江戸登城、日光社参、海の参勤交代は勿論のこと、江戸の街を歩く時も行列を組んでいたのです。
行列には構成があり、前線部隊・本陣・騎馬隊・小荷駄となり、これが「備」(そなえ)。この「備」のままに行列するのを「押」(おさえ)といい、この中の騎馬隊は騎馬を許された上級の家臣です。その家臣が家来達を率いていたので、参勤交代ともなると大人数になり、記録では前田綱紀の参府に従った家臣の前田佐渡守は195人、津田玄蕃は149人とあり、かなりの大人数です。このシステムが大名行列の人数を増やしていたのです。
大名行列には、その中に家臣を取り囲む小さな行列がいくつもあったということです。その多くは日雇いのアルバイトで、大名達は参勤交代や江戸登城があると、今でいう人材派遣業者に奉公人を派遣して貰い、人手を確保し人数を増やして見た目を整えていたのです。
大名行列は人数が多ければ良いのではなく、大名は威厳を高めるため「見せる」ことも肝心でしたが、駕籠や道具に付ける家紋の材質や位置などにも規制が厳しく、幕府の支配下で大名は家格を表現しなければならなかったのです。
この大名行列を見物するのに必要だったのが「武鑑」。これは大名行列名鑑のようなもので、諸大名基本テータカタログですから、見学の他に商業活動や日常の屋敷間のりとりでも活用されていたでしょう。
大名行列は「武威」を見せつけるための軍事パレード的な要素があったため、特に他の藩の領地を通過する時の参勤交代の行列は、華美になりどんどん規模も大きくなってゆきました。加賀百万石の前田家の人数が最も多かったようで、綱紀の頃で4千人を超えていたといわれています。続いて仙台藩は綱村の頃3480人、江戸から遠い薩摩藩でも1240人という記録が残っています。
いったいこんな大人数でどのように進んだのでしょうか?
本隊の先を行く「御先立」、藩主を中心とした本隊「御共隊」、本隊の1日後に行く「御跡隊」というように、だらだらと集団でまとまっていたのではなく、このようにいくつかの隊に分かれて進んでいたのです。前田家のように人数の多い大藩は、藩主通行の前後数日間に渡り行列が断続的に続き、それは威厳もあり見事だったでしょう。
このような行列は以外と早足で、実際の時速は5~6キロメートルで1日34~40キロ進み、8時間から12時間かけて歩いています。ただ歩くわけではなく、いろいろな旅の道具を持って移動していたわけですから、やはり昔の人は健脚です。
パレードに参加する人と見る側。私はもっぱら見る側。「武鑑」と照らし合わせながら、それぞれの大名の持っている道具などを見比べて、呑気に好き勝手なことを言う方が楽しそうです。(本稿は老友新聞本紙2015年10月号に掲載した当時のものです)
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