コラム
江戸の雨具~庶民の雨具は合羽と蓑傘 連載51
つい最近、傘の話でこんな時代になったのか……と思う出来事がありました。それはビニール傘。
今は100円で手に入る時代になりました。傘が100円です。こんな安価で手に入れることが出来るとどうなるのか? 使い捨てです。雨が降ったら缶ジュースよりも安い傘を買い、止んだらどこかその辺に置いてくるというのが、最近のビニール傘事情です。
もっと酷いことに、傘立てにある他人のビニール傘を勝手に使って、次の場所の傘立てに入れ、それをまた次の誰かが持って行ってしまうという現象です。人の物を勝手に拝借する。私には考えられない事ですが、この行為を何の悪びれもなく平気でやっている、そういう感覚の人が増えているのが驚く現実です。
100円という値段がこのようにさせる原因です。物を大切にするという価値を全く無くしているのです。
私の子どもの頃はおぼろげながら傘の修理屋さんが存在していました。それだけ傘は高価でしたから、壊れたら修理して、とても大切に扱ったものです。
江戸時代、傘は下り物の一つで、それは高価な物でした。古傘を買う商売がいたほどです。一般の庶民といえば茅や菅で編んだ蓑笠や合羽を着用し、ほとんどの人がそれすらないので、濡れて歩くか雨の日は外出しないという生活でした。庶民が傘をさして外出するようになったのは、それ程古い話ではありません。
江戸時代前の傘は裂張りで、特別な家柄の人が日除けとしてお共の者にさしかけさせるものでした。大型で長い柄は「差し傘」といいましたが、元禄以降の頃になると柄の短い、紙張りの雨具が一般的に普及し、大阪大黒屋の大黒傘が江戸へ下り当時大流行となり、それを真似て江戸では番傘が生産されるようになりました。番傘というのは、紙が厚くて柄が太く、骨竹が荒削りで大衆向けのものです。
一方で、中央と周囲が青土佐紙で、中間が白色張りで開くと蛇の目になり、柄が藤巻きの物を蛇の目と呼んでいます。こちらは番傘よりも細見で高級です。次第にこちらの方が人気を集めるようになりました。
合羽には、丸合羽、半合羽、長合羽、引き回し合羽があり、ほとんどが紙製でしたが、だんだんと木綿や羅紗なども出回るようになりました。
江戸で雨具店が多かった地域は、日本橋の小舟町・芳町・小網町辺りで、この地域は「照降町」(てりふりちょう)と呼ばれていました。それに並ぶようにして履物屋も多かったのは、晴の日、つまり照日を吉としていたからでしょう。
江戸時代の傘の産地は関西地方でしたから、江戸の傘屋は「下り物」の販売店が主でしたが、これに負けじと茅場町の瑠璃光薬師の裏手にあった傘屋は、自ら「地傘」を造り出して、薬師の縁日にて販売したところ、人気を呼んでたいそうな賑わいとなりました。
時代劇では、浪人や貧乏な武士の手内職で傘張りのシーンが見られます。当時は傘を所有する人も作る人も上流階級だったので、傘張りの浪人のプライドは高かったのです。
傘を平気で使い捨てにする現代人に、当時の人のプライドの高さを少しでも伝えたい思いでいっぱいです。
(本稿は老友新聞本紙2015年6月号に掲載した当時のものです。)
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