コラム
「泉岳寺」~徳川家康が人質時代の感謝を忘れぬ心根…連載50
泉岳寺といえば、なんといっても年末の決定版! これしかない「忠臣蔵」でしょう。吉良邸討ち入りの本懐を遂げ、大石内蔵助と赤穂浪士四十七人が、君主浅野内匠頭の墓前に報告に訪れるクライマックスの場面でしょう。その有名な泉岳寺は、じつは徳川家康が深い感謝の思いを込め、慶長17年(1612年)に創建しました。開山は今川義元の孫・門庵宗関です。意外にご存知の方は少ないと思います。
感謝を込めた相手とは、幼少の頃、人質として預けられた今川義元です。家康は人質時代に多くの苦労を強いられました。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず……」
は有名な遺訓です。これは人質時代の苦労を現しています。兄弟親類、家臣が主人を殺し合う戦国時代の人質は、現代の誘拐犯人の人質と違い、とりあえず生命の安全は確保され、庇護されていました。
当時の今川家は公家文化が花開き、勢力のある武力を誇っていた事もあり、家康は人質時代に天下統一をするための術となる基礎を学び、育ての親であり、元服親でもあった義元を追慕していました。天下を取った後、70歳を過ぎてその追慕の念を形に表し、義元を弔うために創建されたのが泉岳寺です。
当初は、現在のホテルオークラ付近の外桜田に建築されたのですが、1641年の大火で焼失し、祖父家康を尊敬して止まない、三代将軍家光がその追慕の念に感じ入り、今の高輪に再建しました。その再建に当たったのは、浅野家の他五大名。浅野家が泉岳寺を江戸の菩提寺とした関係から、浅野内匠頭と赤穂四十七義士がこの地に祀られているのです。
桶狭間の戦いの後、家康は岡崎に帰り、今川勢がいなくなったので、岡崎城に入城し再び城主となりました。当時、家康は義元への恩義を重んじ、今川方として信長方の小領主を次々と攻め、叔父である水野忠元とも戦い、今川方への絶対的な忠誠を示しています。義元が非業の最期を遂げた後、兄の様な存在である氏真に、義元の弔い合戦すすめ、その恩義に報いようとするのですが、氏真は戦国武将としての器が小さく動くこともなく、八年後には武田信玄の駿府攻めで今川家は滅んでしまい、そしてその15年後に、今度は家康が武田を滅ぼしています。
家康は自分を優遇してくれて、青年期まで育ててくれた義元を尊敬していたと思います。そう考えると家康は義士の心根を深く理解していたといえるではないでしょうか。赤穂義士に思いを馳せることで、家康の心の奥深さを感じることが出来ます。
地下鉄泉岳寺駅を地上に出ると、急な坂の上に泉岳寺の大きな山門が見えます。中門を通り抜け、山門手前で大石内蔵助の銅像が迎えてくれます。四十七士の討ち入りは家康が泉岳寺を創建してから、およそ百年後の出来事です。
(本稿は老友新聞本紙2015年5月号に掲載した当時のものです。)
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