コラム
近郊の名所~由緒ある土地、風情ある場所。連載47
江戸の名所に数えられる場所の中には、郊外に位置する所も含まれます。自分の足が頼りの当時、行楽地というにはたいそう距離があるのですが、風流人には苦労はなかったようです。
南に位置する方角には、品川宿の先に玉川があります。平安の昔から広く知られた名勝で、東海道はここで「六郷の渡し」となった所です。当時は今の多摩川からは想像も出来ませんが「玉川」の名に恥じることなく清流で鮎が名物でした。江戸の料理屋がわざわざ玉川の水を運ばせて料理に使ったという話も残っています。
東の行楽地の限界は紅葉の名所の真間の弘法寺。今の千葉県市川市です。ここまで江戸から足を延ばしていたのですから、本当に昔の人は健脚でした。
北は飛鳥山と川を隔てた台地にある王子稲荷。関八州稲荷の総元締めと言われ、毎年12月晦日の夜には八か国の狐がこの社近くの装束榎の下に集まって、装束を改めて正月の挨拶として王子稲荷に参龍したといわれ、その時に発する狐火によって翌年の作物の吉凶が占われたとされています。そして西の井の頭。さらに西の桜で名がとおる玉川上水の小金井堤となっていました。江戸にはまだまだ自然があちこちに色濃く残っていたので、わざわざ近郊の名勝にまで足を運ぶ風流人の数は少なかったのですか、そのわざわざ出向くのが風流人の粋とされていたのでしょう。江戸も後期になって、物見遊山熱が高まって近郊に人やっと人出が増して行きました。
ここで少し私の地元を流れる多摩川と江戸の水について触れてみたいと思います。
江戸の初期、人口が急増したために、それまでの神田上水では水の需要がまかないきれなくなったため、新しい水源が必要となり、そこで目を向けられたのが清き流れの多摩川でした。
しかしながら水路の建設は簡単にはいきません。はるか遠くの取水口から江戸まで標高差約百メートルを利用して水を流すのです。測量器具の整っていない時代のこと、それはそれは大変な工事です。この難事業に着手したのが多摩川沿いの農家出身という説の庄右衛門、清右衛門の若き兄弟でした。上水開削の企画書を幕府に提出した後、約六千両の資金を与えられ、僅か七か月で多摩川の羽村から四谷大木戸まで水を導いたのですから驚くべきことです。その苦労は並大抵の事ではなく、高井戸まで来た所で資金が底を尽き、自分達の家を売って費用にあてたといわれています。今も流れるこの玉川上水は、全長43キロ、落差92メートルです。
途中にある武蔵野は土質が掘り易かったといわれますがこれは偉業です。この功績によって兄弟は「玉川」の姓を与えられて、両家は玉川上水役のお役目を命じられました。
兄弟のこのような苦労のお蔭で蛇口をひねれば水が出るという、普段あまりにも当たり前になってしまった感覚に身を引き締めて感謝せずにはいられません。どこの水道でも水が飲める日本は本当に素晴らしい国だと思います。
(本稿は老友新聞本紙2015年2月号に掲載した当時のものです)
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