コラム
江戸時代にもハローワーク!?「口入屋」と「出替」の話 連載25
新しいスーツに身を固め、活き活きとした社会人一年生を見かける季節となりました。
就職氷河期が長く続いており、今の学生は仕事に就くということがなかなか難しい時代ですが、フレッシュな姿にエールを送りたいと思います。
そこでふと考えてみました。江戸の頃の働くシステムはどうだったのであろうか……?
旧暦の3月はちょうど出替の月にあたります。出替とは一年契約の奉公人が入れ替わることをいいます。半年契約の場合の入れ替わりは9月で、ともに5日と決まっていたそうです。契約奉公人のほとんどは江戸近郊の農村や甲信越から来て、女性や子供も少なくなく、各地方から出稼ぎにやってくる人々に職を斡旋していたのが口入屋です。今でいう人材派遣業、ハローワークでしょうか。
口入屋の俗称は、入口、受人宿、肝煎、桂庵、慶安、慶安など様々でしたが、江戸幕府は正式に「人宿」と呼んでいました。慶安という呼び名があるのは江戸木挽町の医師・大和慶安が、医術のかたわら多数の縁談の取り持ちをしていたことから、人のお世話や媒酌をすることからとされています。木挽町は今の東銀座の歌舞伎座の近辺です。
また、江戸では宝暦7年(1710)に13組(390人)からなる人宿組合が幕府に認められていました。
武士は家格に応じて徒、足軽、中間といった奉公人を雇う義務があったので、その求人募集を口入屋に頼むのが一般的でした。
しかしながら俸禄の減少や物価高などお家の事情で経済的に奉公人を抱えるのが難しくなると、必要に応じて短期契約の安い奉公人を口入屋に頼むようになっていきました。武士の世界も国が安泰になるに従いだんだんと困窮し奉公人を抱えるということが大変だったということが想像されます。口入屋は注文通りの人材を武士の家に派遣して、その手数料を双方から貰うことで商いが成り立っていた訳です。
現代と大きく違うところは、奉公人は雇用先から前払いで給金を売れ取っていたことです。すると当然、契約期間が来る前に居なくなる不届き者も結構出てくることになります。ですから人を斡旋する際には雇用先に請状(保証書)を作り渡して、奉公人の逃亡やトラブルの解決、処理をする義務も有していました。ときには派遣した奉公人に代わって処罰を受けることもあり、いつの世にも人物保証は命がけの大変なことです。
口入屋といってもその規模はまちまちで、今で言えば店舗オフィスも、間借り事務所もあったのでしょう。繁盛していた口入屋は60以上の武家屋敷に出入りして、小規模な口入屋を傘下に置き、大勢の人材を集めていたそうです。得意先はおもに武家でしたが、だんだんと寺院、商家、職人にまで奉公人を派遣するようになり、適材適所に労働力を提供していたことを考えると、今のシステムとあまり変わらない気がします。
人を紹介するということは責任のある大変な仕事で、時代を経ても同じだということです。(老友新聞社)
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