コラム
今年は2回食べましたか?土用の丑の日にうなぎを食べる由来とは…?連載17
土用の丑の日は、いつの頃からか日本中が「うなぎを食べる日」となっています。百貨店やスーパーなどで、土用鰻ののぼりと共に大量に販売され、町の鰻屋さんも大繁盛の賑わいとなります。
この土用は夏の土用にあたります。しかし、土用というのは夏ばかりでなく、春夏秋冬それぞれにあり、今私達が土用といっているのは、本来「土旺」といい、それがなまったものだといわれています。「旺」というのは「盛んな」という意味もあるので、それぞれの季節で最も盛りの頃ということになります。
もともと土用は、季節の終わりの十八日間を指します。暦の上の土用の日は、正確には土用の入りの日にあたり、この日から最も気の盛んな時が過ぎると、次の日から季節は変化し、したがって春の土用が終わった翌日は立夏になり、夏の土用が終わった翌日が立秋となるわけです。冬の土用は厳冬で、夏の土用は猛暑の頃になるため、こうした頃は身体が弱るので、栄養のある食事を取るということで、食べられるようになったのが夏の土用の鰻です。
実際に土用に鰻を食べるようになったのは江戸時代ですが、もっと昔の『万葉集』にも、鰻は栄養がある食べ物だということは詠われていました。
石麿にわれ物申す夏痩せに良しといふ物そむなぎ取り食せ
痩す痩すも生けばあらむをはたやはたむなぎを取ると川に流るな
二首とも大伴家持が詠んでいますが、当時鰻は「むなぎ」といわれていました。
さて、どうして土用の丑の日に鰻を食べる習慣が広まったのかというのは、当然鰻料理が江戸に入って来たからですが、そのおこりで、最も有名なのは平賀源内説でしょう。
神田泉橋の鰻屋がなかなか売れずに困り果て、源内に相談したところ、「土用の丑の日の鰻は薬になる」と書き店の前に貼ったところ大繁盛した説。また、源内が看板を頼まれて「今日は丑」と書いたのが大評判になったという二つの説があります。また狂歌師大田南畝が、土用の丑の日に鰻を食べれば病気にならないという意味の狂歌をうたったという別の説もあります。そしてもう一つ『江戸買物独案内』には、春木屋という江戸の鰻屋が大量の注文を受け、子の日、丑の日、寅の日に分けて鰻を焼いて保存しておいたところ、丑の日に焼いた鰻だけが風味も変わらなかった、そこで丑の日に焼いた鰻だけを納め、土用丑の鰻の元祖として看板をあげたということです。
鰻は室町時代の末あたりから蒲焼の方法が生まれ、近江の宇治川産の鰻を丸のまま焼いて、酒としょうゆで味をつけ、山椒味噌などを付け「宇治丸」と呼んでいたようです。それが蒲の穂に似ていることから蒲焼と呼ばれるようになったとのことです。上方と江戸では鰻の裂き方から調理方まで異なりますが、どちらにしても香ばしい醤油たれの香りは食欲をそそれるものです。
ギラギラ太陽と鰻ののぼり……蒲焼、白焼き、うな丼、うな重、うなぎ弁当等、かたちは時代と共に変化しても、暑い夏を乗り切る江戸人の知恵は今でも夏の風物詩として受け継がれています。(老友新聞社)
この記事が少しでもお役に立ったら「いいね!」や「シェア」をしてくださいね。