コラム
花火の起源をご存知ですか?「川開きと花火」~江戸の夏の風物詩 連載16
夏といえば、今も昔も変わらずに人々を魅了するのが花火です。世界中の夜空を美しく彩ります。鉄砲の伝来と共に伝わって来た花火が盛んになったのは江戸の頃です。
墨田川の夕涼み期間は、5月28日の川開きの日から8月28日までの3か月間もあり、万冶年間から始まったといわれています。
花火は当初、船遊びのお客達が、花火船が売りに来る花火を買って、勝手に打ち上げていました。江戸両国でショーの様に仕掛け花火が打ち上がるようになったのは、享保18年からで、この年の5月28日の川開きの日に打ち上げられたのが最初です。
この前年、江戸では大凶作とコレラの流行で百万人以上の死者が出てしまいました。そのため八代将軍の吉宗が、死者の魂を供養するために水神祭を行い、その時に上げられた花火が名物となり、毎年川開きから夕涼みの期間の8月いっぱいまで、天気の悪い日以外毎日花火が打ち上げられるようになりました。
仕掛け花火といっても、今の物と比べれば規模も大変小さく、シュルシュル~と音を立て放物線を描いて落ちていく「流星」と呼ばれるものが主役でした。電気の無い時代の夜空に打ち上がる「流星」は、今の時代の華やかで大きな仕掛け花火と比べる事は野暮ですが、当時人々はどのような思いを心に刻み、上る花火を見上げていたのでしょうか?
上がるのは一晩に20発位で、その間隔もゆっくりで間が空きます。「のぼる流星星下り玉屋がとりもつ縁かいな」という歌が残っています。花火が上がる間は、真っ暗になってしまい、カップルの仲を取り持つのには持って来いのようですが、江戸の花火は夕方から始まりますので「どっふり暮れる頃にはお月さんとお星さんに空を譲ろう」と江戸っ子の心粋があったようです。
今でも花火大会の時には必ず聞かれる「た~まや~ か~ぎや~」のかけ声。これ以外に名前を聞く事はありませんが、この二大花火師の「玉屋」と「鍵屋」しか許可されていませんでした。玉屋は鍵屋の手代がその技量を認められ別家し、独立して玉屋の名前を名乗り、それ以来上流に玉屋、下流に鍵屋が舟を出し、ライバルではなく仲良く切磋琢磨しなから花火の美しさを競い合ってきました。屋号の鍵と玉はお稲荷さん狐が守護するもので、稲荷信仰の盛んな江戸ならではです。
花火は仕込みに大変な時間がかかるため、冬の間精魂を込めて作られます。ですからとても高価のもので、一発の花火が一両といわれ、松尾芭蕉の弟子の榎本其角が「一両が花火もなき光かな」と一両が一瞬に消える歌を詠んでいます。
一瞬で消える……尊い命。その命の鎮魂のために江戸の頃より伝わる花火。今は夏のイベントやテーマパークの売り物になってしまっています。今一度、花火の意味を心に刻み、夜空の向こうの亡き人に想いを寄せて見物したいと思っています。(老友新聞社)
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