コラム
物見遊山~江戸庶民の一大娯楽
(本稿は老友新聞本紙2018年4月に掲載された当時のものです)
花粉が飛散して鼻がムズムズするこの季節。それにも負けずになんとなくウキウキするのは、DNAに刻まれている春を待つ喜びを知っている私達日本人の性質ではないでしょうか。
毎年桜の開花予想を見ては、今年は早い、遅いなど自然相手に一喜一憂していますが、やはり花見は日本人の物見遊山の基本だと思うのです。この花見が大衆化するのは以外にも遅く、江戸中期以降のことです。
それ以前は、寺院の境内などで名木といわれる桜を静かに観賞していたのですが、暴れん坊将軍でお馴染みの、八代将軍・徳川吉宗が江戸の町にたくさんの桜を植え、花の名所を整備したことで、現在のような花見スタイルが出来上がり、大勢の人が集まって賑やかな宴が開かれるようになったのはこの頃です。江戸の代表的な桜の名所といえば、上野、飛鳥山、向島、小金井、品川など、江戸庶民が気軽に行ける場所でした。
花見に始まる物見遊山の足は、次第に江ノ島、鎌倉、金沢文庫、大山と遠方に向けて延びていったのです。丹沢山系の大山は古くから信仰の山として、江戸庶民がこぞって出かけたのが「大山詣」です。江戸の中心から約70キロ、途中一泊して、麓の宿坊で更に一泊して山頂をめざし、帰路は鎌倉と江ノ島を見物するのが一般的だったようです。
この時代は参拝と物見遊山はイコールで、どちらかといえば参拝は建前で、とくに女性は無断の旅は禁止されていたため、参拝は旅に出るこの上ない口実になっていたのでしょう。
このような事情のもとに、全国各地から参拝者が集まったのが伊勢神宮でした。伊勢参りは、江戸中期には爆発的人気となり、その数は年間50~60万人にのぼったといいます。当時の人口からすると30人に1人が伊勢参りをした計算です。江戸から伊勢まで片道数十日、ついでに京や大阪の見物も加えると、1か月以上を費やす一世一代の大旅行。そのために講を組んで旅費の積み立てをしたりしています。
伊勢ばかりでなく、東北の出羽三山や信濃の善光寺、紀伊の熊野や讃岐の金毘羅まで出かけた人もいたのです。この頃から徐々に街道整備が進んで、更に旅もしやすくなり、庶民の物見遊山は増えていったのです。
江戸から京まで約5百キロの道のりは、現代では新幹線で2時間ばかりの日帰り距離となりましたが、当時は東海道をひたすら歩いて2週間ほど、駕籠を乗り継げば10日ほどだったといいます。これだけの日数を費やしても旅に出るという、強い想いというのが江戸庶民にはあったのでしょう。道中、名所旧跡に立ち寄り、夜は名物を肴に盛り上がり、男性でしたら遊女とも遊んだことでしょう。
路銀はかなりの額になったはずです。なんといっても一世一代の大旅行なのですから。
(本稿は老友新聞本紙2018年4月に掲載された当時のものです)
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