コラム
「武士の仕事」職人芸がなす内職 連載78
久しぶりに昭和の時代劇を見ていたら、武士の内職シーンが目に留まりました。内職の決定版とも言える傘張りです。
武士だって生きるために必死です。武士といっても身分や収入は様々で大きな差がありまたし、経済や産業が発達すれば当然物価も高騰します。町人でしたら働けば収入増は期待できますが、武士はそうは行かず、昇給がないために貧乏になる一方でした。
江戸の中期頃になると家計を維持するために内職を始める武士が増えていきました。その代表的なのが傘張りです。武士の内職は組屋敷で組織的に行うことが多く、特に有名なのが、青山の鉄砲百人組で、組頭が傘の骨や紙などの材料を仕入れ、組長屋の武士に配って、武士は骨に紙を貼って乾燥させてから、紙に油を塗って完成させるという流れです。
出来上がった傘は組頭がまとめ、仲買商へ売り渡すというシステムでした。青山界隈には傘の仲買商が二十軒近くもあり、「青山傘」といわれて良く売れたそうです。
提灯作りが盛んだったのは、牛込弁天町の根来百人組の組屋敷。大久保百人町の鉄砲組では、つつじの栽培に熱心で、朝顔作りに精を出していたのは、下谷御徒町の徒組の組屋敷。朝顔市に出品して大変な人気だったとか。
虫かごを作っていたのは千駄ヶ谷の組屋敷、鈴虫やコオロギなどの飼育も行われていました。金魚の飼育をしていた武士も多かったようです。
その他にも、手先の器用な武士は凧造りや筆作り、楊枝作りや竹細工などの内職もありました。また、字の達者な者は看板や版下に文字を書いたり、寺子屋の師匠になる者も多くいました。
技能を持っていれさえすれば内職に困らず、収入を得ることが出来たのです。技能が無い旗本や御家人は屋敷があるので、その一部を賃貸したり、庭で植木を鉢に育てて売る者もいました。
下級の武士といえ、勤務があるので、どうやって内職の時間を作っていたのかというと、役付の武士の多くは「三番勤め」といい、3日に1日出勤すればよく、あとの2日は非番だったのです。非番の時には、武芸や学問に精進するのが建前ですが、台所が火の車では内職に励むしかなかったのです。
文化13年成立の『世事見聞録』には、「仕事の合間に内職して、傘や提灯を張り、下駄や雪駄の鼻緒を作るなど、様々な工夫をし、妻子もそれを手伝っている。町人のお蔭で金を受取り、暮らしの足しにすることが出来るのだから、しまいには奉公より内職を大事にするようになる」とあります。
確かにその通りです。「武士は食わねど高楊枝」だけでは、悲しいかなお腹が空いて人間は生きていけないのです。
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