コラム
「戦場での出会いと別れ1―戦場懐古―」~本紙読者投稿より
人は皆この世に生まれこの世を去るまで、喜びと悲しみ、そして不思議な縁で、出会いと別れを繰り返しながら生きている。戦場での出会いと別れは、生涯心から消え去ることはない。「会うは別れの始め」と言う。
昭和14年1月10日。現役兵として、21歳で軍隊に入隊。4か月の科兵教育が終わり、4月27日、支那事変により戦地中国大陸に渡って、2年目の事であった。
ここ中国の首都、南京城を占拠して三年が経過した昭和15年3月中旬、治安も安定し、日本人の経営する飲食店や料亭ができた。街では人力車に乗った着物姿の芸者の姿を見るようになり、平和な日が続いていた。南京城周辺に駐屯する部隊も内地同様に、日曜日の外出が許可された。ただし2人以上で行動する事が義務とされていた。
ある日曜日の午後、市内の東亜劇場で日本映画が上映されていた。劇場前には入場券を買い求める大勢の兵士と、紺の制服に、腕には赤十字の印をつけた12~3人の従軍看護婦が並んでいた。
その中に「K看護婦」がいた。明朗闊達、明るい性格で誰からも好かれ、一度会えば強く印象に残る女性である。入隊前年、高松赤十字病院に入院したとき、内科病棟に6~7人の看護婦がいたのだが、そのときの1人で、大変お世話になった。
「Kさん!」
と思わず駆け寄り声をかけた。Kさんは一瞬驚き、知人のいる筈のない異国の南京の劇場の前で声をかけられ、不審な顔でいた。
「あなたは?」
「Yです。高松の病院でお世話になりました」
Kさんはあっけにとられていた。
入院当時は19歳の青白くヒョロヒョロだった青年が、軍服姿で突然目の前に現れ、驚の連続だった。一緒に勤務をしていたA看護婦も一緒だという。
わずかな時間ではあったが、お互いに部隊名を教えあった。Kさんは旧中国の金陵大学跡の南京第一陸軍病院で、私の部隊とは金陵大学の学生寮で、道路ひとつ隔てた隣の舞台であった。寮の2階の窓から見下ろすと、白衣の兵や看護婦の姿がある。夕食後の軍歌演習を聴きながら、白衣の天使として、K看護婦、A看護婦が勤務しているのだ。
不思議な縁であった。
「ぜひ日曜日に顔を出して。Aさんも喜ぶから」
と言われて別れたのだ。
(香川県 K・Y)
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