コラム
「集団疎開の少年の記憶」~孫に語り継ぐ戦争体験
福島県 I・A
昭和18年から昭和21年まで、私は昔の農業会(今の農協)職員として奉職してまいりました。
大東亜戦争も激しく、食糧難で、来る日も来る日も芋とカテメシ(雑穀などを混ぜた飯)の毎日でした。
干した大根の葉さえ宝物で、山に生えている草も食べられる物は個人で採取し、山間部落に住んでいても採りつくしてしまう状態でした。
1月中旬頃、豪雪地帯で凄く寒い朝のことです。私は職場へ急いでいると、4年生くらいの少年と会いました。その子は学童疎開の児童だとすぐに分かりました。
「寒かったろう、どこへ行くの?」
と聞くと
「オバチャン家へ行きたい」
と、震えながらやっと喋ってくれました。考えている余地はありません。
私は西会津町の派出所へ行き、
「この子を夕方まで預かってください」
とお願いをしました。
遅れて職場へ着くと、主任に
「重大責任のある農業会に遅刻するとはけしからん」
と、こっぴどく叱られました。遅くなった理由は話さず、私は何回も頭を下げました。
仕事を疎かにしてはいけないと、一生懸命そろばんとにらめっこしていると、主任がやってきて、
「君、大変良い事をしたではないか。警察から連絡があり、人命救助をしたそうだね。それが判っていれば、今朝あんなに叱らなかったのに。済まぬ」
私はかえって恐縮してしまいました。
帰り道、ボサボサと降る雪の中、派出所に寄ったら、少年は疎開先の旅館の方に引き取られていったとのこと。少年に会えず、私は少しがっかりしました。
まもなく私は90歳。あの少年は80歳くらいか。今も健在だろうか。会って話がしてみたい。あの時はお互い防寒着も無く、寒さで震えてお互い名乗る余裕なんてなかったのです。
親元から離れて集団疎開をした少年。どれほど家族と会いたかっただろうか。「オバチャン家へ行きたい」と、私に願うしかなかったのでしょう。その願いを叶えてあげたかった。
そんなことも、すべて戦争のため。夢でもいいから少年と再会し、戦争の悲惨さを語りたいと思っています。
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