コラム
「戦死した父と家族」72回目の終戦記念日~孫に語り継ぐ戦争体験
戦の後で…戦死した父と家族
(神奈川県 N・I)
私が9歳、妹が5歳だった時のことである。
昭和12年8月27日、横須賀鎮守府での戦没者合同葬のため、遺骨を出迎える横須賀駅のプラットホームでの事。高熱を出した弟を病院へ連れて行ったので、母の姿もない。
父が8月15日に戦死、17日に広報が届いた。「日本初の渡洋爆撃の任務を遂行しての帰途、燃料タンクに弾丸が命中。親鳥が雛をかばうように、機長が部下をいたわりながら燃え落ちていくのが見えた」と、僚機の戦友が語ったと新聞が報じた。
9月3日、父の出身小学校で町葬が行われた。白木の箱の中は石ころであった。外国で、しかも飛行機だから遺骨などあるはずはなかった。
翌年1月、木更津航空隊士官室から1通の封書が届いた。
「昨年8月15日、火炎に包まれて落ちてきた飛行機は、ものすごい勢いで墜落し、みるみるうちに燃えたという。機体は南京城へ運ばれ、農民が搭乗員を畑に埋葬してくれたことが判明した。一個小隊で骨拾いに行った。遺骨は到着次第届けるが、その時の写真を送る」
という内容だった。
発掘の様子と、
「○○以下七勇士戦士の処」
と竹垣の中に墓標の建つ写真数枚が今も残っている。
焼けた遺体の判別は不可能だったが、飛行服の違う機長だけは判ったから、後日届けられた遺骨を見て母は「この骨太なお骨は間違いありません」と言った。誰もが信じられないほど希有な出来事だったと思う。
敵国の軍人と知ってか知らずか、畑に埋葬してくれた中国の農民に深く感謝し、お礼を言いたいと思いながら果たせないでいる。
ただ一方で、戦死の公報があり諦めていた人々が、戦後になって生還されたというニュースを聞くたびに、もしかしたら父も生きて帰るかもしれない……と期待したが、そんな思いももう出来ないのだと淋しい心地になったこともあった。
当時33歳だった父は、生きていれば百歳。町葬の時、祭壇の前に並んで撮った写真の18人のうち、今生きているのはなんと私一人と知り、愕然とした。なんで、どうして、心身共に弱虫な私だけが生き残ったのだろう。
戦中戦後を、歯を食いしばって生きた母も弟妹も、豊かな日本を知らずに、南京から帰還した父と一緒に福島のお寺の裏山で眠っている。(老友新聞社)
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