コラム
「食欲増進の立役者・醤油」もしも、醤油がなくなったら~連載72
(本稿は老友新聞本紙2017年3月号に掲載した当時のものです)
今年に入り、たった一か月足らず海外で仕事をしていても、やはり日本食が恋しくなりました。
ローストされた肉や魚を前に、もしも山葵醤油があったなら……。直径が掌ほどある一人前のケーキを前に、ああ、心太があったなら、磯辺巻きでもありがたい!と、いろいろな日本の食べ物が頭の中を駆け巡った一月でした。
鰻のたれにしろ、団子にしろ、砂糖が陰で支えている醤油の香ばしさは、想像するだけで食欲をそそります。日本人にはなくてはならない、調味料の筆頭が醤油です。今回はそんな醤油のお話です。
「醤」は「ひしお」といい、食材を塩漬けにした、高温多湿な東アジアで作られている発酵食品です。
江戸時代初期の主な調味料は味噌でしたが、奈良時代にまでさかのぼると、国賓の接待料理では塩、酢、酒、醤で、小皿にそれぞれを入れて食卓で調味していましたが、一般には塩を用いていたと考えられています。この時代に中国から穀醤、豆醤などが入って来て、日本独特の調味料である味噌、醤油に発展しました。
醤油がもしこの世から無くなってしまったら、日本料理は存在することが出来ないと思うほど、日本にはなくてはならない調味料です。
鎌倉時代に法燈国師覚心が製造法を中国から学び、紀州の湯浅でつくりはじめ、桶の底に溜った汁の利用が醤油の始まりとされています。
江戸時代には関西を中心に醤油が製造されるようになり、小豆島や龍野が有名な産地です。上方の醤油が大阪、境の港から、船で「下り醤油」として江戸に大量に運ばれました。
元禄時代になると、上方の醤油職人が江戸に来て醤油作りを広め、関東醤油が常盤、下総、下野、相模などでつくられるようになります。そして下総(今の千葉県)の野田と銚子が関東醤油の濃口醤油を製造し江戸に広めたため、淡口の関西醤油はその姿を潜めていくことになりました。
野田、銚子ともに、大豆や麦の生産が関東平野で可能だったことから、味噌と醤油の製造を積極的に始め、関西に負けないものを製造し、その後、今でも有名な老舗企業を生み出しました。
今や醤油は国際的にも市場を開拓して「ソイソース」として世界に広まっています。
江戸時代、醤油は日本中の庶民層まで行き渡り、食生活の内容を豊かなものにしましたが、さらには砂糖という甘い調味料が加わり、食の分野は急速な進歩を遂げ、桜餅や団子などが神社の門前で売られるようになりました。蒲焼のたれのように醤油と砂糖の絶妙なコラボが出来上がり、食欲をそそるあの匂いを作り出したのです。
砂糖を我が国にもたらしたのは鑑真和上です。江戸時代までは国産化が出来ずに輸入にたよっていましたが、なんとか国産化にしようとしたのは八代将軍徳川吉宗です。
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