高齢者のための情報サイト【日本老友新聞】

老友新聞
ルーペ

コラム

2021年10月01日

「江戸四宿」どこも江戸から一番目~連載64

東海道五十三次を歩き始めて苦節5年。遂に京都の三条大橋に辿り着きした。広重が描いた景色がそのまま残り、当時の旅人の息吹きを感じられる場所や、車の往来が激しい国道など様々でしたが、思い返すと本当に良い旅でした。機会を見つけて書面でもご紹介したいと思います。さて、今回は江戸から数えて一番目の諸国に通じる宿場を紹介いたします。

東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光街道・奥州街道の千住宿、甲州街道の内藤新宿は江戸から諸国へと街道が整い、人々や物の往来が盛んになったために発達した宿で、これを「江戸四宿」と呼んでいます。その中で最も繁盛したのが江戸湾沿いにあった品川宿です。近くには寺社も多く花見の名所もあり、また、大山参りや江ノ島詣でのルートにもなっていたのと、日本橋から2里と江戸に近いため、遊び場としても発達を遂げました。
海に近かったために、潮干狩りやお月見など、江戸庶民のちょっとした行楽の場にもなっていました。旅籠には飯盛女という遊女がいたので、お目当てに遊びに来る男性もいたようです。

それをみかねた幕府は、飯盛女の増員を認め、一時は5百人を数え、あくまで名目は飯盛女なので、揚代は吉原よりうんと格安。吉原は江戸の北にあったので「北」、品川はそれにはらい「南」と呼ばれました。

板橋宿はその昔、将軍家の狩場になっていた場所です。街道の整備によって宿場町として栄え始めた所です。ここは、越後、越中、加賀など30家にも及ぶ大名が江戸の上るさいに利用し、石高の総数は221万石を超したと言われています。また、皇女和宮が降嫁したときには、3万人にのぼる行列を迎え入れる莫大な費用を費やしました。品川宿とは違った賑わいだったのでしょう。
清き心を好み、濁ることが嫌いな江戸っ子は「いたはしじゅく」と呼んでいたそうです。

北の玄関口は千住宿です。日光・奥州道中、江戸からの第一宿に指定されてから、賑わうようになりました。ここには、隅田川に架かる千住大橋があり、近くに、野菜農家が多く米問屋もあったので、市がたち、川岸には材木問屋も多くあり、秩父の山から切り出された材木が集まりました。千住ねぎは質が良く今では高級品になっています。また、千住大橋を渡るといよいよ江戸から離れて行く……という郷愁に満ちた思いにかられるなんとも言い難い風情が残っています。

日本橋から四里の甲州街道第一宿は高井戸です。四里は少しばかり遠いので、その半分の2里の場所にあった茅野原だった所を開発して、元禄12年(1699年)に新しい宿場を置き、ここに信濃高遠藩主・内藤家の屋敷があったので、内藤新宿と呼ばれるようになりました。上町、中町、下町からなり、幕末には、宿の道沿いが家並みに変わり、家数6百98軒、人口は約2万3千人と大発展しました。現在の新宿の賑わいに繋がる土台です。
 今も都内には、江戸四宿の名残りのある場所は残っています。道路にたたずめばここから諸国に通じていた……という実感が湧いてくる場所です。一日で廻れることが出来ますので、江戸の旅人気分でお出かけになってはいかがでしょう。
(本稿は老友新聞2016年7月号に掲載された当時のものです)

この記事が少しでもお役に立ったら「いいね!」や「シェア」をしてくださいね。

酒井 悦子
  • 伝統芸能コーディネーター / 筝曲演奏家

幼少より生田流箏曲を学び、現在は国際的に活躍する箏演奏家。

箏の修行と同時に、美術骨董に興味を持ち、古物商の看板も得る

香道、煎茶道、弓道、礼法などの稽古に精進する一方で、江戸文化の研究に励み、楽しく解りやすくをモットーに江戸の人々の活き活きとした様子と、古き良き日本人の心を伝えている。

高齢者に忍び寄るフレイル問題 特集ページ
日本老友新聞・新聞購読のお申込み
日本老友新聞・新聞購読のお申込み
  • トップへ戻る ホームへ戻る