コラム
2021年02月08日
「どうなる?里山の未来」~本紙読者投稿より
戦後(昭和20年代)の衣食住が不足の時代に、戦場から復員された人や軍需工場が閉鎖されて帰って来た人たちが大勢おりました。
その若い力で小さな集会所を取り壊し、新しい集会所(青年会館)を作り、子供達も参加して演芸会(村芝居、のど自慢)などを開催し、結構活気もありました。
昭和30年代になると食糧事情も良くなり、生産技術も向上しました。しかし米所の新潟県はまだ物づくりも発展途上で、若い人たちが働ける企業探しが真剣に検討されたそうです。
昭和40年代になると所得は倍増。政治も軌道に乗り、東京や大阪などの大都市では物づくりの工場が次々に完成。若い労働力が必要となり、人手の確保をすることが大変重要となってきました。
そして当時中学校を卒業した子供達を「金の卵」と呼ぶようになりました。
ところが昭和40年代の中頃になると米余り時代となり、生産調整とかで作付面積が制限されました。米作りと出稼ぎしか知らない若者達、とくに雪国の里山の人達は競って東京へ走った。先祖伝来の土地を売り、子供を東京の大学で勉強させ、そして就職も東京でするようになった。
若いうちは何の心配もありませんでしたが、年をとり年金暮らしになると医療費や介護で行政を頼りにするしかありません。今は「金の卵」と言われた年代の人達もみんな老体になってしまった。
あの時代に、だれが現状を予測しただろうか。今後里山はどのようになるのか、教えて欲しい。
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「また一軒空家が増える里の秋」(新潟県 Y・W)
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