コラム
芝居町と顔見世興行~娯楽の時間こそ自分と向き合える時。連載46
江戸時代、遊郭と芝居町は二大「悪所」とされていました。一日に千両が動くといわれていた芝居町は、芝居小屋を中心に芝居茶屋が連なる歓楽街でもありました。
今も変わらぬ人気の歌舞伎は、当時も抜群の人気の芸能で、人々の流行の発信地としても重要な役割を果たしていました。出雲の阿国のかぶき踊りに始まり、元禄元年に現代まで続く様式を確立した歌舞伎は日本が誇る伝統芸能です。
江戸町奉行所によって興行を許されていた芝居小屋(現在の劇場スタイル)は、初期の頃は中村座・市村座・山村座・森田座の公許四座でしたが、江島、生島事件で山村座が取り壊されてしまったので江戸三座となりました。中村座は日本橋の境町、市村座は葺屋町(人形町)にあり、すぐ近くだったので俗称「二丁町」と呼ばれ賑わいのある町でした。森田座は少し離れた木挽町にありその規模は小さかったようです。
三座ともに200年間も同じ場所で繁栄しましたが、天保12年に中村座と市村座の全焼と、天保の改革により三座まとめて浅草に移され猿若町が出来ました。猿若という語源は、江戸歌舞伎の開祖とされる初代中村勘三郎(猿若勘三郎)に由来しています。
興行のやり方は今と全く異なって、江戸三座というのは座元をはじめとする技術者の集まりで、主要な役者いわゆるスターは専属ではなかったのです。金主に出資をしてもらい一年単位で役者の顔ぶれを揃えて一座を組むという年間契約方式でした。
新しい一座のお披露目興行は11月1日からの顔見世狂言(芝居)。芝居ではこれが正月の恒例となり、絵看板など新春らしく華やかに小屋の周りを飾り、いろいろな吉例の儀式が行われていました。顔見世興行は観客の入り具合がその後の一年間を影響するとされていたので、各座それぞれ営業努力をしたのでしょう。そのためそれ目当ての観客が押し寄せ大変な騒ぎになることもしばしばだったとか……。
各座が人気を争ったのですが、今も昔もファン心理は変わらず。人気役者には追っかけや出待ちもいたそうです。
顔見世興行は12月10日頃までで、次はいよい新春の初春狂言、曽我物の上演が慣例です。当時は今の歌舞伎と異なり、月ごとに上演内容が変わるのではなく、年に4~5回変わる位でした。暑い夏場は観客も夏枯れしていたため人気の役者は避暑に出掛けていたので、スター不在の興行というものでした。興行時間は開け六つ(午前6時)から夕七つ(午後4時)というのが原則で、最初の時間はお相撲と同様に下積みの役者から出てくるというのが演目の流れでした。
娯楽の無かった時代ですから人々の芝居見物は至福の時だったのでしょう。ゆったりとした時間の流れを感じます。日々なにかに追われるように急いで過ごしがちです。娯楽という時間こそ自分と向き合える時なのかもしれません。
(本稿は老友新聞本紙2015年1月号に掲載した当時のものです)
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