コラム
「京の月」…中国・上海からの引揚げ体験。真夜中に列車が機銃掃射を受け…
1945年。私達一家は中国・上海から日本に帰ろうとしていた。
太平洋戦争はすでに終焉に向かっていることは、子供達にも感じられた。
今のように旅行がやさしいわけではなく、東支那海は機雷がいっぱいの危険海域。私達は中国大陸を陸路、帰国することになった。
上海、南京、長江を渡って北京へ。更に北へ、瀋陽。朝鮮半島から南下して釜山へ。およそ13日の旅だった。観光旅行ならドラマチックな冒険の旅となるところだろうが、私達にとっては命がけの旅だった。
持って帰れるものはそれぞれリュックサック一つ。
父は会社の残務整理のために北京まで私達と同行して、再び上海へ帰らねばならなかった。
揚子江(長江)は海のような大河。泥の河に大きな波が龍のようにうねっていた。
浦口からは北京行きの列車。
徐州を出て何時間か経った頃か、突然機銃掃射を受けた。列車は急停車したまま動かなくなった。機関車に穴が開いたのだ。
すでに陽は落ちて、漆黒の闇の世界。砂を巻き込んだ強い風が窓をたたく。ぼんやりと月が輪郭を残しているものの、遠い闇の世界だ。
また飛行機が帰って来るのではないか。救援列車は来るのか。不安で一睡もしないまま朝を迎えた。
遠い、怖い夜を耐えて、救援の機関車を迎えて、やっと北京駅に着いた。
旅はまだ終わらない。
紫禁城の近くの旅館に入った。
家族4人の最後の夜だ。
翌朝、まだ暗いうちに北京駅に向かう。空も街も風も冷え切っている。ホームは人があふれていて、はぐれないように父のコートを握りしめていた。私達の乗る興亜号もすでに満員。父はほかほかの豚饅頭を帽子いっぱいに買ってきて、私に渡した。
「お母さんのいうことを良く聞くんだよ」
私は饅頭のぬくもりを抱きしめながら、もう逢えないかも知れないと思った。
私達を乗せた特別列車「興亜」は汽笛を残してしずかにホームを離れた。我慢していた涙で、ホームに立つ父の姿はすぐ見えなくなった。
北京駅に立ち尽くす父はどんな思いだっただろう。
父のノートにこんな和歌を見つけた。
子等をのせて
興亜は発てり
燕京(※)に
寒暁月と吾は残れる
極寒の北京駅での父の孤独が身にしみる。
北京からは母、弟、私の3人の旅だ。幸せだった上海の暮らしは幻の彼方だ。
さて現在、我が家の北東のテラスから、月の出を見ることが出来る。三日月、満月など、それぞれに美しい。漆黒の満月の夜は、月は殊の外大きく美しい。月と雲のたわむれも見ものだ。
北京駅の別れから一年あまり経って、父も帰国し、また一つの家族になった。十二歳の私にとって諦観の大地は、同時に自立への小さな一歩だったのかもしれない。
※燕京(えんけい)=北京の古称
(本稿は老友新聞本紙2018年11月号に掲載した当時のものです)
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- 市田 ひろみ
- 服飾評論家
重役秘書としてのOLをスタートに女優、美容師などを経て、現在は服飾評論家、エッセイスト、日本和装師会会長を務める。
書家としても活躍。講演会で日本中を駆けめぐるかたわら、世界の民族衣装を求めて膨大なコレクションを持ち、日本各地で展覧会を催す。
テレビCMの〝お茶のおばさん〟としても親しまれACC全日本CMフェスティバル賞を受賞。二〇〇一年厚生労働大臣より着付技術において「卓越技能者表彰」を授章。
二〇〇八年七月、G8洞爺湖サミット配偶者プログラムでは詩書と源氏物語を語り、十二単の着付を披露する。
現在、京都市観光協会副会長を務める。
テレビ朝日「京都迷宮案内」で女将役、NHK「おしゃれ工房」などテレビ出演多数。
著書多数。講演活動で活躍。海外文化交流も一〇六都市におよぶ。
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