コラム
酒~江戸を圧倒していた「下り酒」 連載45
江戸の人々はどのようにお酒を楽しんでいたのでしょう。
当時のお酒は勿論日本酒です。江戸時代も時代が進むにつれて、上方からの「下り物」も次第に価値が下がっていったのですが、お酒だけは格別の存在でした。なぜならば江戸で消費されていたお酒のほとんどが、上方から船で運ばれてきた「下り酒」だったからです。
銘酒と呼ばれていた伊丹・灘・池田などが代表的なお酒だったのですが、意外な事にその中でも上等とされていたのは、灘ではなく伊丹でした。幕末には下り酒が年間90万樽と圧倒的な数で、江戸やその他の地廻り酒は10万樽ほどでした。この数からも、どれほど「下り酒」が人気があったのか想像が出来ます。
伊丹・灘から運ばれて来るお酒は樽廻船という船に積まれて、熊野灘の荒波を乗り越えて、一度鳥羽に寄り、はるばると江戸へと下って来ます。このはるばるとした船旅がお酒を更に美味しくしてくれます。この船旅は順風ならば5日ほどの距離でしたが、秋から冬にかけての時期は、海が荒れ波が高かったり、また風の無い日もあり途中の港で待たされる日があると、平均すると20日ほどかかっていました。
お酒を船で運んだのは陸路では今のように交通手段も発達していなかったので、経済的に採算がとれなかった事と、お酒を運ぶのには大変な労力を必要としたからです。また、お酒を船で運んだ最大の理由は、酒樽は吉野杉で作られていたため樽が波にもまれるとその杉の香が移り、お酒の味が一段と良くなったからです。
江戸っ子がこのお酒を「富士見酒」と呼んで賞味したのは、富士山を横に見ながら海上を旅して来たからです。これを知った上方の人は当然面白くありません。地元のお酒が江戸でいただくほうが美味しいとはいかがなものでしょう……。そこで考えたのが、お酒を積んだ船を富士山の見えるあたりまで行かせて引きかえさせるというものでした。それほど船で運ばれる酒は人々を魅了していたのです。
燗酒が美味しくなる季節、普通は金属のチロリというものでしたが、正式な宴席では急須のような形の「銚子」が使われていました。現在の「徳利」を「銚子」と呼ぶのはここから来ています。
当時の清酒は精米した白米を使って麹と蒸し米で醸造ものを諸白と呼んでいました。もう一種類の片白というものは、白米と黒麹で醸造した濁り酒です。これはドブロクに近いお酒で、当然諸白より安かったため庶民はこのお酒を楽しんでいました。
江戸の「生酔」今の「へべれけ」。どんぶらこ~どんぶらこ~とはるばると船旅をするお酒を想像するだけで、杉の香が漂ってきそうです。(本稿は老友新聞本誌2014年12月号に掲載した当時のものです)
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