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コラム

2018年01月19日

第22回 高崎城~井伊直政が3年間居城とした城。有事を想定したテクニカルな堅牢性も

別名=和田城
所在地=群馬県高

戦国期、高崎の地は和田と呼ばれておりました。
上杉、武田、北条氏の強い勢力の中で、この土地を支配していた和田氏の居城である和田城があった場所で、信州、越後を結ぶ交通の要でもありました。
また、江戸時代徳川幕府にとっても、関東を防衛・統治するためにとても重要な所でもありました。そのため、小田原征伐の際に、前田利家・上杉景勝らの大軍の連合軍に包囲され落城し、廃城になっていた和田城を拡張したのが高崎城です。

徳川家康が江戸城に入った後、徳川四天王筆頭であった井伊直政が箕輪城から高崎城に移り、3年間居城とした城です。
しかし、直政は拡張も未完のまま近江佐和山城へ移封されます。それ以降は酒井、松平、安藤と築城を続けながら城主交替が続き、安藤氏の時代にやっと完成したと考えられています。

城の西に流れている烏川を上手く利用し、要害としてその崖上に本丸を中心とした主郭が築かれました。最盛期には本丸の西側に西の丸・西曲輪・榎曲輪・瓦小屋が輪郭式に配置されて、東側は本丸を囲む形で二の丸・三の丸が悌郭式に配置されました。

総構も構築されて有事の時には大軍受け入れ可能な広い城下町を備えていました。
本丸周辺の北と西側は複雑に入り組んだ縄張り配置になっています。このことから、天下泰平な江戸時代以降も中世的な様相を残していたと考えられています。
天守の代用として、本丸西側土塁中央にあった御三階櫓があり、近世城郭としての威風を誇っております。
二の丸には本丸側に梅ノ木曲輪、三の丸側には曲尺馬出が配置されて、至る所に防備が固められています。家康の有事を想定したテクニカルな堅牢性が見られます。

井伊直政の築城に関して、家康の相当な配慮があったことが、高崎城の普請を詳細に記述した『上州高崎城大意』に記録が残っています。
外郭を形成する三の丸は、堀幅10m、土塁の高さは6mを測り、現存しています。鉄砲や大砲の攻撃に備え強化した防護機能だったのでしょう。ここにも家康の堅固ぶりがうかがえます。(老友新聞社)

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