コラム
「B29の空爆で家を焼かれた記憶」…老友本紙読者からの便り
兵庫県 T・K
昭和20年4月4日。四国の4都市がB29の空爆で焼土と化した。
家族6人の私達は、2つ下の弟を祖父が連れ、母は祖母を連れて防空壕へ逃げ込みました。私は防空頭巾の上から水をかぶり、小学校の近くの畑へ逃げたのです。父は最期まで家に留まり消火にあたり、祖父の姉が裏の屋敷にいたので連れ出したそうです。
B29が去った後、うっすらと夜が明けかかる頃。近くまで帰ると、そこには門だけが残った我が家がありました。庭に近所の人が入れる大きな防空壕があり、隣のお年寄りがそこに入っておりました。とても逃げ切れないと思ったのでしょう。
列車で2時間ほどかかる南の地へ向かい、私達が落ち着いたのは夕方でした。裏のかわらには谷川が流れ、四国巡礼の里でした。
弟は配給品をもらいに市内へ。父も銀行員なので列車で市内へ通っておりましたが、帰りにまたB29の機銃掃射に遭い、そのときの左腕の傷跡はいつまでも残っておりました。列車内で伏せたとき、前を見ると人の頭だけが転がっていたそうです。
私も徴用で専売局へ通っておりましたが、そのときはたまたま休んでいたので九死に一生を得ることが出来ました。そのとき列車は客車と機関車を切り離して、機関車だけが次の駅へ走ったそうです。
村の人達、とりわけ同年代の方と仲良しとなり、食料を頂いたり、何かとお世話になりました。小さな村なので自分達の食べるもので精一杯のようで、母は奥の部落へ足を伸ばしていたようです。私も着物を仕立ててあげたり、弟は徳島市内へ配給をもらいに行っていました。
ある日、私は疲れのためか高熱を出し、医者のいない村でしたので一山越えた村へ父が連れて行ってくれたことなどを思い、父母の愛を感じました。
終戦を聞いたのは8月15日。フィリッピンへ出征した兄のことを思い、寂寞とした気持ちがこみ上げてきました。
今、そのときのことが走馬灯のごとく思い出され、現在の幸せを考えると涙を禁じえません。(老友新聞社)
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