高齢者のための情報サイト【日本老友新聞】

老友新聞
ルーペ

コラム

2024年09月04日

お茶と日本人〈生活に密着したお茶〉

(本稿は老友新聞本紙2019年5月号に掲載されたものを一部修正をしたものです)
静岡県民謡の『茶摘み』の歌詞にある「夏も近づく八十八夜~」の八十八夜は雑節の一つで、立春を第一日目として八十八日目のことをいいます。一番に摘み取られたお茶は「新茶」とされ、大変栄養価が高く健康に良いといわれています。

日本人にとって無くてはならないお茶の歴史はそれほど古くはありません。弘仁6年(815年)に永忠という僧侶が嵯峨天皇に煎茶を献じた記録が初見です。喫茶が本格的になったのは、栄西が宋から抹茶を伝え『喫茶養生記』を残してからです。

江戸時代は武家の間では茶の湯が広がり、庶民にも路上の「一服一銭」という、今でいう移動式カフェの出現でお茶を飲む習慣が広まりました。『毛吹草』という正保2年(1645年)刊の俳書には、茶の産地として、山城、伊勢、大和、丹羽などの国が登場し、山城国以外は「煎茶」と記されています。この頃はまだお茶の産地で有名な今の静岡県にあたる駿河、遠江などではなかったのです。

この時代の煎茶は薬缶などで「煎じる」入れ方で、現在のように急須に茶葉を入れて、その中に湯を注ぐ入れ方ではなく、製法的には番茶に近いものであったと考えられています。煮立ったお茶を茶碗に半分位注ぎ、水を加えて飲んだという記録も残っています。

男性が嗜好品として、酒、たばこを好んだのに対して、お茶は女性に好まれて、実際には幕法では無かった『慶安御触書』には「夫をおろそかにし、茶をよく飲み、寺社などに物見遊山する女房は離縁すべし」とあります。現代では、そんなことを言う夫が離縁されてしまう世の中ですが、当時の幕府は農民が嗜好品を消費することに対して規制をしていたのでしょう。

18世紀の初めの大阪には64軒の「諸国煎茶問屋」があり、美濃国、伊予国、日向国、肥後国など遠方のお茶も扱っていました。日本の抹茶、煎茶は紅茶や中国茶と異なり発酵茶ではありません。山城国の宇治では元文3年(1738年)に今の煎茶に近い「青茶」が考案され、これによって次第にお茶は普及し、天保期になると「玉露」が出回り、高級煎茶として広まります。お茶が幕末から明治にかけて有力な輸出品となったのも、技術革新があったからこそです。

お茶は食後の一服の他に、菓子、漬物などと共に楽しんだり、お茶漬けのように食事そのものに利用されたり、私達の生活の場には昔から欠かせない存在です。今はペットボトルの普及で急須の無い家庭も増えているようですが、年に一度の新茶の季節。日本人ならばやはり、茶葉から一煎一煎丁寧に入れてお茶の色、香り、味を楽しみ、ビタミンCを身体に採り入れて爽やかな5月を健康的に過ごしたいものです。
(本稿は老友新聞本紙2019年5月号に掲載されたものを一部修正をしたものです)

この記事が少しでもお役に立ったら「いいね!」や「シェア」をしてくださいね。

酒井 悦子
  • 伝統芸能コーディネーター / 筝曲演奏家

幼少より生田流箏曲を学び、現在は国際的に活躍する箏演奏家。

箏の修行と同時に、美術骨董に興味を持ち、古物商の看板も得る

香道、煎茶道、弓道、礼法などの稽古に精進する一方で、江戸文化の研究に励み、楽しく解りやすくをモットーに江戸の人々の活き活きとした様子と、古き良き日本人の心を伝えている。

高齢者に忍び寄るフレイル問題 特集ページ
見学受付中!長寿の森
見学受付中!長寿の森
  • トップへ戻る ホームへ戻る