コラム
江戸の名前 〈身分や立場がすぐわかる〉
(本稿は老友新聞本紙2019年3月号に掲載された当時のものです)
新入学や社会人一年生など、日本では春がスタ―トの季節。何かと名前を書く事が多い時。一時前にキラキラネームという、読むのに首をかしげてしまう名前が流行しましたが、難解な名前をつけられた子ども達が大きくなって、名前を変えてしまう事もあるのだとか。
名前というものは一生共にするものだと思っていたのですが、最近は少し事情が変わっているようです。
実は江戸時代も名前は職業によって頻繁に変わるものでした。例えば武士の場合は、元服した時につけられる名前を実名といいますが、この他にも通称や、社会的に出世していく度に変化して行く官職名というものがありました。
時代劇でお馴染みのラストシーンのお裁きが見事な「大岡越前」は、江戸町奉行の大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)。実名は忠相です。成長するとともに「求馬」「市十郎」「忠右衛門」と通称は変わっています。また、越前守というのは官職名で、従五位下の位階になった時に名乗ることが許されたものです。従五位下に叙されると自分で官職名を決める事が出来るので、忠相は最初は能登守を名乗っていましたが、町奉行になった時に越前守に改めています。
このように自分で好みの官職名をつけてしまうと、ときに同じ名の人も現れます。老中、御用人など幕府の重職についている人と同じ官職名になった場合は、違う名前に変えなくてはなりませんでした。武士社会では、実名で相手を呼ぶことは失礼にあたるという考えがあったため、呼ぶ時は、地位や身分がわかる言い方で代用していたのです。それが、官職名や通称が盛んになった理由です。実名は「諱」(いみな)ともいわれ「呼ぶ事をはばかる名前」という意味です。
地位によって名前が変わるのは、町人社会でもありました。江戸時代の大豪商三井家の場合は、当主は代々「八郎右衛門」と称しています。そのほか、手代は忠蔵や善兵衛、丁稚なら太助や岩吉というように、名前を聞けば立場や身分がわかるようになっていました。
それでは、女性はどうだったのかというと、解り易いのは大奥です。働く女性達は、実名でなく仕事上の名前を使用していました。御目見得以下の農家や商家の娘は「須磨」「初音」「空蝉」「明石」という『源氏物語』からとるならわしだったので、「源氏名」というのはここから来ています。庶民の出であっても、雅な名前で呼ばれているうちに、名前が人を成長させる効果で、だんだんと大奥女中らしく華咲いていったようです。
最高責任者の御年寄は「岩岡」「滝山」「浜岡」「瀬川」など、代々受け継がれて行く名称がありました。
失礼にあたる表現を極力婉曲にする心使いが、名前の呼び方にも込められていたのです。この事からも、あらためて日本語は気遣いのある豊かな言語なのだと思うのです。
(本稿は老友新聞本紙2019年3月号に掲載された当時のものです)
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