コラム
サムライ日本人〈義理〉
(本稿は老友新聞本紙2019年2月号に掲載されたものを一部編集しています)
日本人が本来持っているものの一つに「義理堅さ」があると私は思っています。時代が変わってもその本質は受け継がれていくものです。人から助けてもらったり、救いの手を差し延べられたら「受けた恩は必ずや返そうとする」。そういう考え方をするのが私達日本人です。日本人として忘れてはならない心を、江戸時代の逸話をもとに考えてみたいと思います。
江戸市中に多いもの、「火事、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬の糞」。このような俗語になる位に、江戸市中はとにかく火事が多かったのです。町は常にホコリっぽかったうえに、建物は木造でしたから、すぐに火の手があがってしまい、歴史に残るような大火事も、数度起こっています。
振袖火事とよばれる、明暦3年(1657年)の正月18日、本郷丸山の本妙寺から出火した明暦の大火もその一つです。運悪く折からの強風にあおられて、湯島、神田、駿河台、日本橋方面に燃え移り、火の手は広がって十万人ともいわれる死傷者が出て、江戸は大きな被害を受けました。この火事の時に、日本人として誇らしい逸話が残されています。燃え広がる火が、牢屋敷のある日本橋小伝馬町に迫った時、牢屋敷の長官を務めていた石出帯刀の行動です。なんと石出は囚人たちに「私の一命にかけて釈放する。ただし、そのまま逃げないで、必ずや淺草新寺町の善慶寺に戻って参れ」と言い渡して牢から出したのです。
牢屋敷の長官は囚獄といい、江戸町奉行の配下です。囚人を預かるのが仕事ですが、牢の鍵は町奉行の管理であったので、大火事や地震などの災害時でも、囚獄に牢を開ける権限はありませんでした。それでも石出は、犯罪者であっても人の子。多くの人が焼け死ぬのを見過ごせず、独断で牢の格子を打ち壊したのです。この時、牢を出た囚人は120人余り。死罪を待つ囚人もいたでしょうから、どさくさに紛れてこのまま逃げてしまって当然でしょう。
しかし、振袖火事の3日後には、囚人たちは全員淺草善慶寺に戻って来たというのです。囚人達は、罪を犯した人達で真人間ばかりでないはずですが、石出の切腹覚悟の命を賭けて自分達を救おうとした行動が、囚人達に理解出来たからこそ、彼らは石出の心に答えて人として裏切ることはしなかったのではないでしょうか。
たとえ死ぬために帰ることになっても、帰って来いといわれたら帰る。受けた恩は石に刻み、一度交わした約束は必ず守るという、本来、日本人が持っている義理堅さをこの逸話が教えてくれています。
(本稿は老友新聞本紙2019年2月号に掲載されたものを一部編集しています)
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