コラム
湯治行〈湯治場では「骨休め」〉
(本稿は老友新聞本誌2018年12月号に掲載された当時のものです)
この時期はどこかに出かけてみたくなるのは私だけではないはずです。湯けむりが立ち昇る温泉で手足を延ばしくつろぎたいと思うのですが、駅のポスター、テレビの中継を見て取りあえず行った気になって我慢しています。
日本の「旅」の歴史を辿ってみると、まずは江戸時代の中期です。とはいっても、江戸時代はタテマエでは庶民の旅が抑圧されていた時代で、庶民が無断で旅に出ることは禁じられていました。とくに、農民と女性には厳しく、農民は土地を守り、女性は家を守るのが本分とされていたからです。「入り鉄砲に出女」箱根の関所改めのときに、主に取り締まる対象を物語る言葉です。
それでも江戸中期の元禄から文化文政の頃、庶民は寺社詣などへよく旅に出て、旅の隆盛期とよばれています。なかでも伊勢参りは爆発的な人気でした。現存する多くの「道中記」「名所記」からも読み取れます。この頃に「道中案内」や「旅程表」も出版されています。
寺社詣と同じ位に人気だったのが湯治行です。文化2年(1810年)に出された『旅行用心集』には、「左に著す所の諸国の温泉ハ、唯養生の為に湯治する人は勿論、叉物参(ものまいり)、遊山なからに旅立、其もよりよりによって湯治する人の為に、国分(くにわけ)にして見易やうに里数を加へ、効験の大略をあく」とあります。
湯治は物見遊山が主眼ではなく保養と治療という目的がはっきりしていたので、湯治ついでの物見遊山だったのです。
徒歩が主流のかつての湯治旅は、物見や遊山を含んだのんびりしたもので、温泉郷での長逗留は当たり前。湯治は七日、十日が一単位だったようで、「湯七日」、「湯十日」という言葉も伝わっています。
江戸期の入湯法は、2~3日湯に入り、まずは食欲の加減を判断して、問題が無ければ日延べして入湯を重ねて、湯治に来た者同士は、皆病気があるのだから、仲良く気持ちよく過ごしましょう。といったものです。
時間のゆとりが少ない現代の私達からすれば、湯治に日程を費やすだけで、充分な癒しと精神療法だと思います。
湯治がこれからの季節、冬場に集中していたのは、遠出が可能になる農閑期だったからで、農閑期だからこそ、幕府の御目こぼしも得られたのでしょう。
休作期が娯楽と休養にあてられ、農民や庶民は温泉に出かけ「骨やすめ」「泥おとし」といわれましたが、その習慣が今も地方には残っています。
湯治によって次の半年なり一年のエネルギーを充電するのですから、日数をかけるのは当然です。今風でいうリゾートの原型といえるのかもしれません。
天下泰平とされた元禄期と文化文政の頃、庶民、農民の旅は許容され、良く働き良く学ぶ日本人ですが、決して遊び下手ではなかったようです。
(本稿は老友新聞本誌2018年12月号に掲載された当時のものです)
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