コラム
第6回 福岡城〈天守は幕府に配慮し取り壊された可能性も…〉
所在地=福岡県福岡市中央区城内
種類=平山城
軍師・黒田官兵衛の長男黒田長政が1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの戦功により、徳川家康から筑前国50万余石を与えられ、福岡藩初代藩主となりました。長政ははじめ名島城に入りますが、翌年に新城を築く運びとなり、長政自らが設計したといわれています。そして野口一成を普請奉行に命じ、黒田氏の故地が備前国邑久郡福岡であることから新城は「福岡城」と名付けられました。
城郭の形式は悌郭式の平山城で、東側には那珂川まで紺屋町堀といわれる中堀、佐賀鍋島藩の協力で掘削された備前堀を連結し、西側には大きく湾入する草ヶ江という入江を利用して大堀とし、南側は赤坂山から伸びる丘陵を切断して堀を切り、北側は潟を埋め立てて城下町とした、海に近い場所を大いに活かした城です。
城内は天守台、本丸、二の丸、三の丸の4層に分かれ、花見櫓、潮見櫓など47の櫓が設置され、本丸には本丸御殿、二の丸には二の丸館と南丸、三の丸には家老屋敷と黒田如水(官兵衛)の隠居所である御高屋敷が構えられていました。
城外への3つの通路として、堀の大手側に上の橋、下の橋、南西搦手側に追廻橋を設けていました。天守閣については存否が確定せずに未だに不明ですが、近年になって、当時の小倉藩主だった細川忠興が、次期藩主の忠利へ宛てた手紙の中に「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」という記述が発見され、天守があった可能性が示されているという説も出ています。
城下町には、中上級家臣の待屋敷があり、その外側の北に建築や武具関係の職人や、生活に必要な品を商う商人が住居し、反対の南側には下級武士の屋敷があり、足軽町とされていました。また、那珂川、樋井川沿いの周辺地域には寺院が多く配置され、城下によく見られる鉤形や丁時路と同じように防護的な性質だったと考えられます。
家臣は黒田氏入封にしたがって、商工業者とともにこぞって移住して来ました。
幕末になると須崎浜をはじめ博多湾沿岸には台場が作られ、現在でもその一部は残っています。明治以降、廃藩置県により下屋敷が県庁として使用され、その後は陸軍が駐屯し、多門櫓など一部を除き、大半の建物が国内の他の城と同じように解体や払下げなどで、ほとんどが失われてしまいました。(老友新聞社)
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